〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
ひ よ ど り 越 え の 巻

2013/11/12 (火) おと あに た ち (一)

皇后宮亮こうごうぐうのすけ 経正つねまさ は、ひとり仮屋の奥の一室にいた。
父の経盛、次男の経俊つねとし 、そのほか郎党もみな、屋島を出て、はや波路はるかな戦陣へ向かっていたが、長兄の彼のみは、なぜか、ひとり残っていたのである。
小机の上の懐紙かいし には、
“ひとはみな いくさにいでし 仮の屋に  梅ばかりこそ”
と書きかけの詠草えいそう が散らしてあった。
梅ばかりこそ ── とまで んで、下の句が付かず、筆を投げたものらしい。
そして、やりばのない心を、琵琶びわ に向けかえ、 くともなくただ、ひざに抱きかけた時なのである。
表の柵門さくもん の方で、何やら人声がしていた。
ふと、耳をすました経正は、
「あの声は、弟らしいが・・・・。さては、案じていた敦盛が、やっと帰って来てくれたか」
うれしげな眉とともに、
「ああこれで、この兄の祈りも届いた ── 」
と、琵琶を下へ置き、居間の を分けてたたず んだまま、表の方を、うかがっていた。
居間といっても、ほんの雑な陣屋ぶしん。
板壁に をたれ、荒むしろの一隅いちぐう に、弓、よろいつぼ、小机などのあるほか、調度らしい物は何もない。
がただ、彼には好きな道とて、ここにも一面の琵琶だけは置いてあった。
琵琶と彼。
それは恋人のような ── とでもいえようか。
去年、寿永二年の春だった。
木曾のふせぎに、北陸出陣の途中でも、竹生島ちくぶじま ぎ渡って、かの有名な “仙童” と銘のある琵琶を弁財天べんざいてん宝前ほうぜんだん じて 「── 今生こんじょう の思い出をつくした」 と、したこともあり、また、その年の七月、一門都落ちのさいには、仁和寺の御室おむろ ノ宮へおいとま乞いに出て、宮から拝領の “青山せいざん ” の琵琶をば、 「落ち行く身に、かような名器をたずさえても、万一、戦場の泥土に みくだきでもしては」 と、宮のお手もとへそれを返上し、すぐ一門のあとを追ったというほどな 琵琶には愛着の深い経正だった。
けれど、この二日ほどは、
好きな琵琶を手にしても、なんの感興すらわかないほど、経正は、敦盛のことを心配していた。 「── 帰って来ないような弟ではない」 と、信じているものの、憂いは憂いのまま、雲の起伏にも似て、どうしようもなかった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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