皇后宮亮
経正つねまさ は、ひとり仮屋の奥の一室にいた。 父の経盛、次男の経俊つねとし
、そのほか郎党もみな、屋島を出て、はや波路はるかな戦陣へ向かっていたが、長兄の彼のみは、なぜか、ひとり残っていたのである。 小机の上の懐紙かいし
には、 “ひとはみな いくさにいでし 仮の屋に 梅ばかりこそ” と書きかけの詠草えいそう
が散らしてあった。 梅ばかりこそ ── とまで詠よ
んで、下の句が付かず、筆を投げたものらしい。 そして、やりばのない心を、琵琶びわ
に向けかえ、弾ひ くともなくただ、ひざに抱きかけた時なのである。 表の柵門さくもん
の方で、何やら人声がしていた。 ふと、耳をすました経正は、 「あの声は、弟らしいが・・・・。さては、案じていた敦盛が、やっと帰って来てくれたか」 うれしげな眉とともに、 「ああこれで、この兄の祈りも届いた
── 」 と、琵琶を下へ置き、居間の簾す
を分けて佇たたず んだまま、表の方を、うかがっていた。 居間といっても、ほんの雑な陣屋ぶしん。 板壁に簾す
をたれ、荒むしろの一隅いちぐう
に、弓、よろいつぼ、小机などのあるほか、調度らしい物は何もない。 がただ、彼には好きな道とて、ここにも一面の琵琶だけは置いてあった。 琵琶と彼。 それは恋人のような
── とでもいえようか。 去年、寿永二年の春だった。 木曾のふせぎに、北陸出陣の途中でも、竹生島ちくぶじま
へ漕こ ぎ渡って、かの有名な
“仙童” と銘のある琵琶を弁財天べんざいてん
の宝前ほうぜん に弾だん
じて 「── 今生こんじょう
の思い出をつくした」 と、したこともあり、また、その年の七月、一門都落ちのさいには、仁和寺の御室おむろ
ノ宮へおいとま乞いに出て、宮から拝領の “青山せいざん
” の琵琶をば、 「落ち行く身に、かような名器をたずさえても、万一、戦場の泥土に踏ふ
みくだきでもしては」 と、宮のお手もとへそれを返上し、すぐ一門のあとを追ったというほどな 琵琶には愛着の深い経正だった。 けれど、この二日ほどは、 好きな琵琶を手にしても、なんの感興すらわかないほど、経正は、敦盛のことを心配していた。
「── 帰って来ないような弟ではない」 と、信じているものの、憂いは憂いのまま、雲の起伏にも似て、どうしようもなかった。 |