敦盛は、足をはやめた。あたりの小鳥の声に
── 。 空は明るみかけている。他人
の身の上どころではなかったと思う。なお、心配は自分の前にぬぐわれていたわけではない。 父へ、また兄たちへ、この七、八日の自分の無断名旅を、なんと言い訳したらよいか。 屋島の一門の掟おきて
として、陣抜じんぬ けは、第一の大罪と申し合わせてある。それを自分は犯したのだ。 もとより
「都に残してきた恋人に一目・・・・」 などとはたれにも言えた義理でなし、許されるはずもない。そこで、自分の幼少から、側を離れず仕えてきた熊太にだけ打ち明けて、同意させ、ひそかに小舟で抜け出したものだった。 しかも、おりふし一門は、都の情勢に応じて、その全軍を挙げ、この月、二十六日ごろから兵船をそろえ、一ノ谷や生田などへ、続々、出陣するであろうという予想も、ほのかに分かっていたのである。 恋心とは、意地の悪いもの。──
と聞くとなお敦盛は、夜昼なく、恋いもだえた。 「── その一戦で果てるかも分からない。明日は知れぬ浮舟の身」 といや増す思いをどうしようもなく。 「恋一つだに思うざませず、死ぬはくちおし」
と、盲目的に、小舟を東へ漕こ
がせたのだった。 とはいえ、父や兄が出陣の日までには、かならず帰ろうと、心に誓っていたのであるが、思いの外、日数もかかって、今日はもう一月の二十八日。 「熊太。・・・・熊太」 「はあ」 「つねには、そこらの浦曲うらわ
に隠してあるたくさんな兵船が、今朝は影も見えぬぞ」 「あらましは、はや出陣したものとみえまする」 「おことは、平気よの。わしは、父のお陣屋が近づくにつれ、胸が騒いで、お顔も仰げぬ心地がする。どう、申してよいやらと」 「ひたすら、まことをお告げなされませ。熊太もおしかりは覚悟。もし若君のおわびがかないませぬ時は、てまえが腹かっ切って」 「ばかな、そんなことをしたら、敦盛はおことを恨むぞ。せっかく遂げた思いも、そのような犠牲にえ
を見せられては、ただ、後悔のみになろう。かまえて、腹など切るな。── どこまでも、ただ敦盛がおわびしよう。泣いておわび申し上げる。・・・・のう、それしかあるまい」
屋島のすぐふもとは、西も南も東も、一水の潮流が繞めぐ
っていて、牟礼むれ の方とは、まったく縁が切れている。 そこの干潟ひがた
干潟を拾って、渡りこえると、左方に、新内裏の大屋根と、仮御門がながめられ、なお、うねる山路のまま少し北へ行くと、また一つの柵さく
があった。 参議修理大夫しゅりのたいふ
経盛つねもり の仮館である。 柵門に立っていた番の武士たちは、家臣とみえ、敦盛の姿を見ると、はっと、眼をそばだてた。そして、戸惑いかけたが、急にまた硬直して、あだかも仇あだ
を待つごとき顔をそろえた。 「敦盛ぞ・・・・。父君へ伝えて給われ、不埒ふらち
な他出つかまつりましたが、今、立ち帰って参りましたと」 わが家と思い、家来どもとは思いながらも、後ろめたさが、悄然しょうぜん
と、彼にそう言わせた。 にべもなく、家来どもは、乞こ
いをしりぞけた。さげすむように、敦盛の耳へは聞こえた。 「はや、大殿には、御出陣の後です。この屋敷には、もう、主上すらも御座ござ
あらせられませぬ」 「えっ。・・・・すでに、ご、ご出陣とな」 「御一門の総領、宗盛公をはじめ、門脇かどわき
どの、知盛卿とものりきょう 、重衡卿しげひらきょう
など、ことごとく」 「で、では・・・・兄君もおられぬか」 「経俊つねとし
の殿とて、申すまでもありません」 「上の兄君は」 「ただおひとり、経正の殿だけは、おるにはおられますが」 「オオでは、上の兄君に、お目にかかろう」 走り入ろうとすると、家来たちはまた、申し合わせたように、両手をひろげ合って、きびしくそれをも拒んだ。 「なりません、なりません。たとえ、三男敦盛がこれへ戻って来ようと、決して入れるな、寄せ付けるなと、大殿のおいい残しでありました。お兄君とて、お会いなさることではございますまい。いずこへなと、お立ち退の
きあれ、お立ち退きあれい」 |