〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
ひ よ ど り 越 え の 巻

2013/11/11 (月) 屋 島 の 恋 の 子 (四)

敦盛は、足をはやめた。あたりの小鳥の声に ── 。
空は明るみかけている。他人ひと の身の上どころではなかったと思う。なお、心配は自分の前にぬぐわれていたわけではない。
父へ、また兄たちへ、この七、八日の自分の無断名旅を、なんと言い訳したらよいか。
屋島の一門のおきて として、陣抜じんぬ けは、第一の大罪と申し合わせてある。それを自分は犯したのだ。
もとより 「都に残してきた恋人に一目・・・・」 などとはたれにも言えた義理でなし、許されるはずもない。そこで、自分の幼少から、側を離れず仕えてきた熊太にだけ打ち明けて、同意させ、ひそかに小舟で抜け出したものだった。
しかも、おりふし一門は、都の情勢に応じて、その全軍を挙げ、この月、二十六日ごろから兵船をそろえ、一ノ谷や生田などへ、続々、出陣するであろうという予想も、ほのかに分かっていたのである。
恋心とは、意地の悪いもの。── と聞くとなお敦盛は、夜昼なく、恋いもだえた。
「── その一戦で果てるかも分からない。明日は知れぬ浮舟の身」 といや増す思いをどうしようもなく。 「恋一つだに思うざませず、死ぬはくちおし」 と、盲目的に、小舟を東へ がせたのだった。
とはいえ、父や兄が出陣の日までには、かならず帰ろうと、心に誓っていたのであるが、思いの外、日数もかかって、今日はもう一月の二十八日。
「熊太。・・・・熊太」
「はあ」
「つねには、そこらの浦曲うらわ に隠してあるたくさんな兵船が、今朝は影も見えぬぞ」
「あらましは、はや出陣したものとみえまする」
「おことは、平気よの。わしは、父のお陣屋が近づくにつれ、胸が騒いで、お顔も仰げぬ心地がする。どう、申してよいやらと」
「ひたすら、まことをお告げなされませ。熊太もおしかりは覚悟。もし若君のおわびがかないませぬ時は、てまえが腹かっ切って」
「ばかな、そんなことをしたら、敦盛はおことを恨むぞ。せっかく遂げた思いも、そのような犠牲にえ を見せられては、ただ、後悔のみになろう。かまえて、腹など切るな。── どこまでも、ただ敦盛がおわびしよう。泣いておわび申し上げる。・・・・のう、それしかあるまい」
屋島のすぐふもとは、西も南も東も、一水の潮流がめぐ っていて、牟礼むれ の方とは、まったく縁が切れている。
そこの干潟ひがた 干潟を拾って、渡りこえると、左方に、新内裏の大屋根と、仮御門がながめられ、なお、うねる山路のまま少し北へ行くと、また一つのさく があった。
参議修理大夫しゅりのたいふ 経盛つねもり の仮館である。
柵門に立っていた番の武士たちは、家臣とみえ、敦盛の姿を見ると、はっと、眼をそばだてた。そして、戸惑いかけたが、急にまた硬直して、あだかもあだ を待つごとき顔をそろえた。
「敦盛ぞ・・・・。父君へ伝えて給われ、不埒ふらち な他出つかまつりましたが、今、立ち帰って参りましたと」
わが家と思い、家来どもとは思いながらも、後ろめたさが、悄然しょうぜん と、彼にそう言わせた。
にべもなく、家来どもは、 いをしりぞけた。さげすむように、敦盛の耳へは聞こえた。
「はや、大殿には、御出陣の後です。この屋敷には、もう、主上すらも御座ござ あらせられませぬ」
「えっ。・・・・すでに、ご、ご出陣とな」
「御一門の総領、宗盛公をはじめ、門脇かどわき どの、知盛卿とものりきょう重衡卿しげひらきょう など、ことごとく」
「で、では・・・・兄君もおられぬか」
経俊つねとし の殿とて、申すまでもありません」
「上の兄君は」
「ただおひとり、経正の殿だけは、おるにはおられますが」
「オオでは、上の兄君に、お目にかかろう」
走り入ろうとすると、家来たちはまた、申し合わせたように、両手をひろげ合って、きびしくそれをも拒んだ。
「なりません、なりません。たとえ、三男敦盛がこれへ戻って来ようと、決して入れるな、寄せ付けるなと、大殿のおいい残しでありました。お兄君とて、お会いなさることではございますまい。いずこへなと、お立ち退 きあれ、お立ち退きあれい」

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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