磯松原、また松並木、松が岡と、牟礼
への道は、耳から松風の絶えるひまもない。 まもなく、山の屋島は、明の星を塞ふさ
ぐ行くての壁として黒々仰がれ、五剣山ごけんざん
の肩がその後ろに重なって望まれる。そして、ほどなく、六万寺の前へ来た。総門は、ふかい木蔭の奥に眠っている。 「やあ。・・・・それでは、ここで」 と、吉次は立ち止まって、 「朱鼻あけはな
どのは、この六万寺の一坊に仮の住居と便りにあった。いずれまた、お会いしましょう。父の君へも、どうぞ、よしなに」 と、あいさつを述べ、すたすたと、ひとり総門の方へ別れて行った。 その六万寺には、敦盛たちも、一ころ、起居していたことがある。 一門の人びとが、九州の大宰府だざいふ
、門司ヶ関など、流浪に流浪を重ね果て、去年、この屋島へたどりついた当座は、主上の安徳天皇には、六万寺を、行宮あんぐう
とされて、軍営も一時、この総門の内におかれていた。 が、その後、四国、淡路を始め、瀬戸内の島々や、山陽、山陰、九州の一分からも、味方に馳は
せ参ずる武族が急激に増え、軍営は、屋島のうちへ移された。そして、主上の内裏もまた、潟元かたもと
と呼ぶ地に造営されたのである。 そのため、敦盛の父経盛ばかりでなく、奉侍の人びとの仮屋もみな、屋島の内へ普請ふしん
して、移っていた。 「・・・・はて、妙な男でございましたなあ」 吉次と道連れのうちは、ひどく無口だった熊太が、彼のうしろ姿を見送ると、こうつぶやいた。 「余り大きなことばかり申すので、何やら得体えたい
が知れませなんだ。・・・・あんなのには、御用心なさらねば」 「でも、秀衡殿の家来と申しておれば」 「口はなんとでも言えましょうに。・・・・若君はまだ、世の怖おそ
ろしさなど、何もご存じない」 「いやいや、それは都にいたころのこと。筑紫つくし
、大宰府など漂泊さすろ うて、人の心の表裏ひょうり
は、知り抜いた」 「なかなか、そんなものではございませぬ。あの男の、眼のするどさ。それに、割符わりふ
も持っていなかったようだし」 「恩こそあれ、彼に、怨みはない。割符は持たずとも、六万寺の坊船を使うてここへ来たほどな男」 「いえ、おま思えば、六万寺坊船の船印も、偽やら何やら知れたものではございません」 「そう、おことのように、人を疑うたらきりはない。陣営の深くではなし、朱鼻の許まで来たぐらいな者、なんの仔細しさい
があろうぞ」 |