〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
ひ よ ど り 越 え の 巻

2013/11/11 (月) 屋 島 の 恋 の 子 (二)

では。おことはなんと申さるるお人か」
敦盛の方から問われて、男は急に、
「まこと、申し送れました
と、居ずまいをあらためた。
「てまえは、金売り商人あきゆうど 吉次きちじ と、世間では通っておりまする」
「ほ、あの遠い奥州の国人くにびと か」
「されば、奥州の人間には違いございませぬ。── が、まことは、平泉の藤原秀衡殿ふじわらひでひらどの の家中で、金沢次郎かなざわじろう 吉次よしつぐ と申す者」
「どうして、二つの名や二つの姿などを」
「奥州より、京、西国へまいるには、どうしても、源氏の領国を越えて来ねばなりますまいが」
「あ、そのために」
「御一門ではないが、あの朱鼻あけはな どのとは、古いよしみ で、太政入道清盛公がおさかんなころより親しい仲でした。以来、平家方より奥州藤原家への密々なお使いも、奥州より平家へ送る武器や物資も、この吉次の手にかからぬは何一つないほどで」
と、彼の自慢はにじ のようだ。
公達育ちのまだうら若い敦盛は、疑うことを知らなかったし、味方にとって大事な役割をしている人物とも信じられて、彼の一言一言に聞き入っていた。
「このたびも ──」 と吉次はなおその大言を続け、 「みちのくの大船百艘に食糧、馬匹、布、漆、皮革、武器など、軍になくてはならぬ物のみ満載して、すでに西国へ向け、奥州の港を出ておるなれど、どこへその船を寄せるか、へたをすれば、源氏の手に抑えられるおそ れもあり、心を砕いているのでおざる。── で、それらのことを打ち合わせのため、朱鼻殿に会わんと、屋島へ急ぐこの寺船に、あなたを乗せまいらせるも一つの御縁。── 屋島陣屋の木戸の案内頼み申すぞ」
と、何もかも秘すところない容子だ。
「いと、やすいこと」
と、敦盛は答えて、また、熊太の顔をかえりみ、
「かねてより、秀衡殿と平家との間には、奥州の北方より鎌倉の後ろを突かんというひそ かなお約束もあったとか聞く。── もし、そのような御加勢が表立てば、京の源氏も、いちどに浮き足立って崩れ去るにあろうに」
と、言った。
しかし、世間の中に年をとって来て、人にもいろいろな目にあわされて来た下臈げろう の熊太には、敦盛のように、すぐ単純なよろこびは持てなかった。毛深い顔は、すこぶるあいまいないなずきをしただけで、酒にさえ用心深く、おりおり、その眼は でまわすように、吉次の人間と心の裏を見ようとしていた。
また、日が暮れる。
長い夜を、手枕になる ──。
そして船が、四国の志度しど へ着いたのは、二十八日の朝もまだ暗いうcぎだった。
深い湾に抱かれた志度しどうら は、左右の山も水も、ひっそりとした谷の海といった感じでもある。しかし、ここはすでに屋島陣屋の内の一ノ木戸と聞いて、吉次は、
「どやどや行って、疑われてもつまらない、皆は船に残っていろ」
と、船中へ言い捨て、ただ一人で敦盛と熊太のあとに従って行った。
木戸へかかるたび、熊太は、
「これは参議経盛卿の御三男、敦盛の君でおわす。こう申す供の下臈げろう は、稲川いながわ 熊太くまた 。ほかにともの うたるは、奥州秀衡殿の御家来で ── 」
と、いちいち割符わりふ のような物を出して、かがり の兵に見せていた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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