沖へ出るほど、風浪はつよい。 やまぜの特質である。息をやすめては、舷
や帆を横なぐりに蹴け って行く。船はみずから揚げた潮の花を浴びつつ大きく傾かし
ぎ進んでいた。 「速いの、熊太」 「このぶんでは、やがて明石あかし
の端はな をかわして、明朝には、播磨灘はりまなだ
をのぞきましょう」 「播磨灘へ出るのは、今宵のうちであえおうに」 「いや、いや。明石の水ノ戸と
は、流れも急です、潮路を逆に向かうことゆえ、かしこでは暇取りまする」 「何せい、これで、ほっとしたぞよ。── あわれ、この愚かな子に、亡き母君のおん導みちび
き」 その母の形見の品でもあろうか、珊瑚さんご
とも堆朱ついしゆ とも見える紅あか
いつぶの数珠じゅず を取り出して指にかけ、敦盛は口のうちで、称名しょうみょう
をとなえた。 箱のような船底の一劃いっかく
である。上は掛け屋根とし、汐除けの囲いもあるが、しぶきと寒さばかりは、防ぐすべもない。 「のう、熊太」 「はい」 「余りに気軽う乗せてくれたが、そも、この船にいる頭領めいた男は、何者であろうの」 「されば、熊太もそれを考えておりましたが」 「分からぬか、そちにも」 「とんと、見当もつきませぬ。福原あたりで見たかのような気もいたしますなれど」 「乗せてと、あの者へ頼んだおり、こなたの素性を怪しんで、根ほり葉ほり訊き
いたであろうに」 「いえ、それらのことも、問いはいたしませぬ。ただ一言 ── オオ最前、岸辺で見かけたあの公達か ── と申したきりで、身どもらも屋島へまいる者、いざ乗られよと、いとも心安げでござりました」 「ふしぎよの、平家といかなる有うえん
縁の者やら」 どう考えても、天佑てんゆう
、それとしか思われない。 やがて夜とともに、熊太のいった明石の海峡へかかったものか、船脚ふなあし
はとみに衰え、風力も弱まった。 上の口から、たれか灯を下げてくれる者がある。灯皿を受けて、板壁に掛けると、また次ぎの手が、酒、暖かい夜食、夜具よのもの
などを下へ手渡し 「あずれ明日、あらためて、おあるじが、お目にかかると申しておりました。今宵は、ごゆるりと」 と、言い残して立ち去った。 つつがなく一夜は明けた。思いのほか深々と眠れもした。それに今日の海上は嘘のような凪なぎ
でもある。 「あれ。御覧ごろう
じ、西の方に、家島いえしま の影が」 「ありがたや、ゆくてに淡く見ゆるは小豆島しょうどしま
か。もう、わが家へ帰ったような心地よ」 舳みよし
に立って、時を忘れているその主従を見かけ、胴どう
ノ間ま の方から一人が近づいてゆき、いんぎんに何かを伝えていた。 「誘わるるまま、主従は、艫寄ともよ
りの館の内へ入った。眼ざねるばかりな唐織からおり
の毛氈もうせん の上に、昨日の痩せた男がすわっていた。 「ようこそ、御公達には、まずそれへ」 上座には、北海の獣の毛皮が敷いてある。下にもおかず、男の部下たちは、艫とも
の調理場から、ただちに肴を運んで来たが、その器うつわ
とて、ただの木鉢きばち や土器ではない。大内裏でも見ることのない銀盤やら密陀絵みつだえ
の器物であった。 「御公卿達に御意ぎょい
を得るのは初めてですが」 と、男はやがて微酔の面おもて
をニヤニヤさせて言い出した。 「── 御父君の経盛卿つねもりきょう
は、よそながら存じ上げておる者。どうぞ、おへだてなく、くつろいでください」 「父をどこで御存知でしたか」 「治承のころで、所は福原、あの夢野ノ館やかた
の宴会うたげ かと覚えておる」 「夢野の・・・・。はて、どなたの館であろう」 「朱鼻あけはな
どののお招きであった。例の朱鼻あけはな
の伴卜ばんぼく が家で御同席申したので」 男は酒が強い。狼おおかみ
に似たその容貌ようぼう は、一見、酷薄な性情を思わせるが、反面には、豪放な風ふう
もあって、相手にかまわず、自分は自分でしきりに杯を傾けている。 福原の的場まとば
や馬場で、そのころ、一門の公達ばらが、さかんに騎射の稽古けいこ
をしていたものだが、中には、経盛卿の三男たる、あなたの可憐かれん
なお姿もたしかに交じっていたはずである、と言い、 「昨日、渡辺の船着きでは、にわかに思い出せなんだが、後にて、思い出したことでおざる。いや、御成人なされましたなあ」 と、その酔眼を一そう凝らして、惚れ惚れと見入るのであった。
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