〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
ひ よ ど り 越 え の 巻

2013/11/10 (日) 屋 島 の 恋 の 子 (一)

沖へ出るほど、風浪はつよい。
やまぜの特質である。息をやすめては、ふなべり や帆を横なぐりに って行く。船はみずから揚げた潮の花を浴びつつ大きくかし ぎ進んでいた。
「速いの、熊太」
「このぶんでは、やがて明石あかしはな をかわして、明朝には、播磨灘はりまなだ をのぞきましょう」
「播磨灘へ出るのは、今宵のうちであえおうに」
「いや、いや。明石の水ノ は、流れも急です、潮路を逆に向かうことゆえ、かしこでは暇取りまする」
「何せい、これで、ほっとしたぞよ。── あわれ、この愚かな子に、亡き母君のおんみちび き」
その母の形見の品でもあろうか、珊瑚さんご とも堆朱ついしゆ とも見えるあか いつぶの数珠じゅず を取り出して指にかけ、敦盛は口のうちで、称名しょうみょう をとなえた。
箱のような船底の一劃いっかく である。上は掛け屋根とし、汐除けの囲いもあるが、しぶきと寒さばかりは、防ぐすべもない。
「のう、熊太」
「はい」
「余りに気軽う乗せてくれたが、そも、この船にいる頭領めいた男は、何者であろうの」
「されば、熊太もそれを考えておりましたが」
「分からぬか、そちにも」
「とんと、見当もつきませぬ。福原あたりで見たかのような気もいたしますなれど」
「乗せてと、あの者へ頼んだおり、こなたの素性を怪しんで、根ほり葉ほり いたであろうに」
「いえ、それらのことも、問いはいたしませぬ。ただ一言 ── オオ最前、岸辺で見かけたあの公達か ── と申したきりで、身どもらも屋島へまいる者、いざ乗られよと、いとも心安げでござりました」
「ふしぎよの、平家といかなるうえん 縁の者やら」
どう考えても、天佑てんゆう 、それとしか思われない。
やがて夜とともに、熊太のいった明石の海峡へかかったものか、船脚ふなあし はとみに衰え、風力も弱まった。
上の口から、たれか灯を下げてくれる者がある。灯皿を受けて、板壁に掛けると、また次ぎの手が、酒、暖かい夜食、夜具よのもの などを下へ手渡し 「あずれ明日、あらためて、おあるじが、お目にかかると申しておりました。今宵は、ごゆるりと」 と、言い残して立ち去った。
つつがなく一夜は明けた。思いのほか深々と眠れもした。それに今日の海上は嘘のようななぎ でもある。
「あれ。御覧ごろう じ、西の方に、家島いえしま の影が」
「ありがたや、ゆくてに淡く見ゆるは小豆島しょうどしま か。もう、わが家へ帰ったような心地よ」
みよし に立って、時を忘れているその主従を見かけ、どう の方から一人が近づいてゆき、いんぎんに何かを伝えていた。
「誘わるるまま、主従は、艫寄ともよ りの館の内へ入った。眼ざねるばかりな唐織からおり毛氈もうせん の上に、昨日の痩せた男がすわっていた。
「ようこそ、御公達には、まずそれへ」
上座には、北海の獣の毛皮が敷いてある。下にもおかず、男の部下たちは、とも の調理場から、ただちに肴を運んで来たが、そのうつわ とて、ただの木鉢きばち や土器ではない。大内裏でも見ることのない銀盤やら密陀絵みつだえ の器物であった。
「御公卿達に御意ぎょい を得るのは初めてですが」 と、男はやがて微酔のおもて をニヤニヤさせて言い出した。 「── 御父君の経盛卿つねもりきょう は、よそながら存じ上げておる者。どうぞ、おへだてなく、くつろいでください」
「父をどこで御存知でしたか」
「治承のころで、所は福原、あの夢野ノやかた宴会うたげ かと覚えておる」
「夢野の・・・・。はて、どなたの館であろう」
朱鼻あけはな どののお招きであった。例の朱鼻あけはな伴卜ばんぼく が家で御同席申したので」
男は酒が強い。おおかみ に似たその容貌ようぼう は、一見、酷薄な性情を思わせるが、反面には、豪放なふう もあって、相手にかまわず、自分は自分でしきりに杯を傾けている。
福原の的場まとば や馬場で、そのころ、一門の公達ばらが、さかんに騎射の稽古けいこ をしていたものだが、中には、経盛卿の三男たる、あなたの可憐かれん なお姿もたしかに交じっていたはずである、と言い、
「昨日、渡辺の船着きでは、にわかに思い出せなんだが、後にて、思い出したことでおざる。いや、御成人なされましたなあ」
と、その酔眼を一そう凝らして、惚れ惚れと見入るのであった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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