〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
ひ よ ど り 越 え の 巻

2013/11/10 (日) ろく まん ふね (三)

由来、この辺は、古くから渡辺党と呼ばれる武族の居住地で、遠くは、かの渡辺わたなべつな を始め、文覚上人もんがくしょうにん の祖父もここの出だし、源三位げんさんみ 頼政よりまさ の乱を助けた武者には渡辺党が多かった。
で、先ごろから族党の間では、 「源平いずれに加勢するか」 で、内輪うちわ めしていたらしい。世間ではつい昨日までも 「渡辺党は、いくさ の外に立ち、源平のどっちへも、 らぬそうな」 とうわさしていた。けれど、それが堅持出来るほど強大な勢力ではないから、ついに、源氏の催促さいそく に、応じて行ったものとみえる。
── それの通過を、木蔭から見送った美少年は、なおさら、矢のような帰心きしん にせかれたらしく、
「戦は迫った。あすにも源氏の西下となるやも知れぬ。ああ、こうしていられる身ではない。熊太は、まだか」
と、じっといるにもいたたまれず、浜の方へ歩き出した。
すると、河口に近い雑鬧ざっとう の中だった。
廻船宿らしい家構やがま えの軒先から、すぐ前の船着き場へ、往来を横ぎって、ぞろぞろ出て行く同勢十数名の旅人があった。
中でも、一だん服装もよく、 せておおかみ のようだが、背はすぐれ、この同勢の宰領さいりょう かとも見える五十がらみの男は、ふと、鋭い眼のくぼから、美少年を見て、
「・・・・はてな?」
小首をかし げた風だった。
が、それはただ、そう見えたという行きずりの人の気振りに過ぎない。
その男も同勢も、みな渡り板をこえ終わると、すぐ帆支度ほじたく やら、ともづな を解く用意に忙しそうだった。
船は大きい。左舷さげん 右舷うげん に、多くの をそろえ、さらに帆を張り上げれば、どんな風浪も越ゆるであろう。速船型はやぶねがた のみよしはおの の刃のようである。
見ると、そのみよし の横に、
牟礼むれ 六万寺ろくまんじ 坊船ぼうせん
と書いてある。
「や、六万寺の船か。── 寺領の物や貢物みつぎ を運ぶ寺船てらぶね とみゆる。ならば、志度しど へ行くに違いないが」
美少年は、とっさに、何か、望みを起こしたらしいが、あいにく熊太がそばにいない。 「熊太よ、何をしているのだ、早く来い ──」 と叫びたいような容子ようす をして、伸び上ったりした。
やっと、その熊太が駆け戻って来るのが見えた。近づくやいな、彼は、
「今朝から渡辺党の触れがまわり、淡路、四国への渡海は、まかりならぬと、船止めしておりますそうな。そのせいか、二ツ松に待たせておいた小舟も、どうしたやら見当たりませぬが」
と、声もしどろに、
「さてさて、なんとしたもの。いっそ、住吉辺まで行って思案を立て直さぬことには」
と、手の甲で、額の汗をこすった。
耳もくれず、美少年は、
「ええ、そのようなこと、もう、どうでもよいわ。あの船を見よ、熊太」
「どうでもよくはございますまいが」
「見よというに、 ── あの船を」
「えっ?」
「なんと、六万寺の坊船ではあるまいか」
「オオ、まこと、牟礼むれ の寺船のようで」
「わかったか」
「わかりまいたが?」
「思うに、この敦盛あつもり が心をあわれみ給うて、御仏みほとけ が渡しの船をここに示現じげん し給うものと思わるる。敦盛あつもり が亡き母君は、人いちばい御仏に帰依きえ あつき方でもあったゆえ」
「・・・・でも、武士や商人あきゆうど やら、うんさな男どもが、あまた見えまする。ひょっとしたら、瀬戸内せとうち の海賊どもではございますまいか」
「ならば、なおよからん。── 黄金こがね財物ざいもつ 、望みの物は、なんなりと得させてん。ただこの身を、屋島の近くまで渡してくれよと、頼むがよい。── 船がいかり を上げぬまに、あの痩せ顔の背高き男に、おり入ってと、幾重にも身をかがめて、頼んでまいれ」

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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