〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
ひ よ ど り 越 え の 巻

2013/11/10 (日) ろく まん ふね (二)

千鳥ちどり は、河口や町屋の空に、たえず風花かざはな のような弧をえがいては、またサッと、低い羽音とともに、所きらわず舞い落ちた。
「風か。── 熊太」
「また、やまぜ (東南風) が吹き出して参りましたな」
「屋島から乗って来た小舟はどこに待たせておいたか」
「浜の二ツ松に」
「来る時は、なぎ であったが、このやまぜに向こうては、どうであろう」
「わずか、 二ツの小舟、休みなく ぎ急いでも、三日三夜みよ はかかりましゅず。それも途中、風雨の厄に会わねばのことで」
「そのように、幾日も費やしてはおれぬぞ。なんとしても、明日の夜までには行け」
「そ、そんな、御無理なことは」
「無理でも、帰らねばならぬ。── おそらく、屋島の御船手は、軍勢すべてを分かち乗せて、もう今日ごろは、一陣二陣と、福原の輪田ノ岬さして、御発向と思わるる」
「都の内の、源氏勢は」
物具もののぐ いている兵はない。いつにても、生田いくた 、一ノ谷へ駆け向かわんず様子に見えた。わけて、九郎殿が手の者は」
「九郎殿とは」
「鎌倉殿がおん弟」
「しゃつ、あのような冠者かじゃ の率いる兵に、われら平家が打ち負けはいたしませぬ。ひとたび、屋島の御軍勢が、播磨はりま摂津せっつ の岸へ上れば」
熊太は、燃ゆる眼になった。
が、美少年の眸は、また けよぎる千鳥の影を海の方へ追って ──
「やよ熊太、今は、勝ち負けを案じているのではない。一刻も早く、屋島へ帰らぬことにはと、胸ふさがる思いなのだ。・・・・なだ今日明日には、主上のお座船や、父君が乗らせ給うお船もともづな を解くまいが、三夜もすぎては、間に合わぬ。もし、それに乗り遅れなば、いかなる御折檻ごせっかん をうくるやも知れぬ」
「それゆえ熊太も、やきもきしておりましたのに」
「過ぎたことは、もう言うな。ただ、なんとか、早う渡る思案をせい」
「ちっ、今となって、そんなだだをおこね遊ばしても」
「ああ、千鳥のつばさが身に欲しい」
「お待ちなされませ。二ツ松まで行って、談合して参りまする。しょせん、あの小舟は捨て物、よその船持ちにかけ合うて、大きな速船はやふね が出せぬものか、どうか」
熊太は、若い主人のわがままをそこに残して、長柄ながら の浜の方へ駆けて行った。
待つ身に立てば、わずかな間も、どんなにいらだたしいかを、美少年は、こんどは身に知る番になった。
渡辺橋が、とどろに鳴っていた。見れば十騎二十騎また七、八騎と鎧武者よろいむしゃ の一隊が、北へ渡って行き、よど の上流へと、急いで行くのだった。
「渡辺党よ、渡辺党が行く」
「源氏の召文めしぶみ にこたえて、渡辺党も東国方に加勢と決まったものとみゆる」
往来の声は、美少年の胸をつよく打った。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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