〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-[』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (十一) ──
ひ よ ど り 越 え の 巻

2013/11/10 (日) ろく まん ふね (一)

女にもまれな眉目びもく のよさに加え姿体したい もしなやかな美少年だった。太刀たち き、腹巻姿で、武者一般の風と変りはないが、坂東ばんどう 武者でないことは、どことなく分かる。
彼はつい今し方、この摂州せっしゅう 難波なにわ (現・大阪)宿口しゅくぐち で馬を乗り捨て、そこまで送ってくれた源氏の兵数名に、しきりと礼をのべたうえ、別れにのぞんで、 「昨夜、自分に情をかけ給うた大将は、そも、なんと仰せらるるお方か、せめておん名だけでも、聞かせて欲しいが」 とたずねていた。
兵たちは、それに答えて 「かの殿こそ、鎌倉殿のおん弟九郎の君ぞ。あれがもし、他の大将であったら、おん身を き放したうえ、われらをこうして、こう遠くまで送らすようなことはなかったろう。打首か牢獄ろうごく かにきまっている。それを、逢いたい恋人ににも逢われたあげく、まこと、命拾いを召されしよ。・・・・ても、運のよい公達きんだち かな」 と、少年が恋に けた冒険の成功を、からかい半分、祝福したりうらやんだりして、笑い笑い別れて、京へ引っ返して行ったのだった。
しくも、敵方の兵に送ってもらい、そこからは、ただ一人となって、国府のある繁華な難波ノ津大江の町中へ入って来たその美少年は、往来ゆきき の人も眼に入らぬ容子ようす で、
「・・・・さては、あれが九郎義経殿だったのか。源氏の九郎どのと知りせば、ゆうべ、あのおり、なお答えようもあったのに」
と、捕われた刹那せつな の自分を口惜しげに思い返してみたり、また、最後の別れを告げて来た恋人の面影なども、なお、まぶた に連れて歩いているように、うつつない足どりだった。
けれど、やがて ──
江に添った渡辺の聚楽じゅらく のかなたに、真っ青なうな づらが迫って来、河口の船着ふなつ きにざわ めく大船小舟の帆柱だの人声を知ると、彼の もそのびん の毛も、波間にとど まりない千鳥ちどり と一つ潮風に吹き がれて、
「そうだ。・・・・今日は二十六日、熊太くまた は案じぬいていよう。ここへもど ると約した日よりは二日も遅れた」
急に、そこらの商戸や船宿ののき ばや、道行く人影にも、眼をそそぎ始め、そしてたれかを探しつつ行くらしかったが、渡辺橋の近くまで来ると、橋だもとに、やはり人待ち顔してたたず んでいた雑色ぞうしき 風の骨太ほねぶと な男があった。
ふと、男の潮焦しおや けした赤ら顔が、こなたを見、はたと、ひとみ が合うやいな、
「おお、おう若君。熊太はここでおざる。なんと遅いことで」
と、駆け寄って来た。
めぐ り会えたよろこびを、美少年は、わざと、笑くぼにはぐらして、あの悪さを隠し顔に。
「やよ、熊太。そんなにも待ちぼう けてか」
「当たり前なことを仰せられる。ほかへの旅とはわけが違うて、今の都へ、ただお一人での忍び入りは、危ういこと申すまでもなし、ぜひ熊太がお供せんと申せしも、おゆるしなく。・・・・そのうえ、二十四日中には、渡辺わたなべ まで立ち帰ると、かたく仰せられて行かれたのに」
「いや、心にはかけていたものの、ようやく、かの君の館へ近づき、尽きぬ名残を語らい得たが、これが最後ぞと思うものから、ひと夜の忍びが、つい二夜ともなって」
「では、首尾しゅび よう、日ごろの思いをお遂げなされましたか、それはそれは、熊太にとっても、この世の、心残りが腫るるよろこ びではおざるが」
と、このあるじ 思いらしい郎党は、主人の恋への共感と、自分の愚痴とを、なんとも、割り切れないような顔に ぜゆがめて、
「── なれど若君、待つ身となって御覧じませ、とかく、 しゅうのみ考えられて、もしや、おん身の凶事にあらざるや、万一、間違いでもあったら、このたびのかくごと 、御一族に知れずにはおるまい。この熊太が罪に処せらるるは是非もなけれ、日ごろ、末子の若君をば、あのようにいつく しまるる大殿へたいし、あんとお び申したらよいか。腹かっ切っても、追いつかぬことだが・・・・と、いやもう、昨日も今日も、今のたった今までも、どんなに、気を んだことか知れませぬ。こうお姿を見るまでは」
と、そのたくましい筋肉までを、ほっと安堵あんど の思いにほぐ すかのように、初めて、体じゅうから、にぶい笑いを揺すり出した。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next