〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-Z 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (九) ──
一 門 都 落 ち の 巻

2013/11/04 (月)  ぜん かん げん こう (四)

幼いみかど、御母の建礼門院、二位ノ尼、一門のたれかれ、女房たちまで、大きな輪を作って、冷たいこけ の庭に坐った。
かなたの法華堂で鐘が鳴り、一族の裕円ゆうえん仲快ちゅうかい 、能円法師の読経が流れ始めると、磯の燈籠堂とうろうどう が、ほたるかご のように輝いた。三十六とう の明りがいちどにとも ったのである。
それが、海に映じて、瑤々ようよう と波上を送られてゆく光のかなたに、きょうしま築堤ちくてい が、黒々と横たわっていた。清盛が、半生の財と情熱を傾けたものだ。
築堤は、今では海底と密着して、どんな荒天の波浪にも、永劫えいごうつい え去ることはない。清盛が積んだ権力や遺産は、もろくも崩れてここに流亡の姿を伏し並べたが、経ヶ島は、ゆるぎもしない。滅びようもない。
「もう、おしかりも聞かれませぬが、今日この有様を、いかばかり、地下でお怒りでしょうか。お詫びする言葉もございません。ただ、一門力をあわ せあて、都に帰る日を呼び返し、ふたたび、ここに詣でる日を誓いまする。── しばらく地下のおん嘆きを、どうぞお忍びくださいまし」
宗盛以下、胸の内は、みな一つであったろう。順々に、墓前へぬかずき、香華こうげ手向たむ け、そしてそれが終わると、管絃講かんげんこう を催して、故人の霊をなぐさめた。
つづみ を、宗盛が打ち、羯鼓かっこ を重衡が持つ。また、経正は琵琶びわ を抱き、敦盛あつもり は笛を吹き、しょう を建礼門院が いて和した。
やがて、天人界のもののような、きれいな、しかし余りにちり の気もなくて寂しくもある合奏が嫋嫋じょうじょう とわき起こると、松の風も、それに和して、こずえの露を降りこぼし、人も楽器も、地上一面のこけ も、白珠しらたま でちりばめられた。
陰暦いんれき 二十三夜ごろの月が、松より低い空にあった。── 管絃講も終わるころは、さらに、月は、低く薄くなっている。
「おう、時刻らしい。雪ノ御所に、ちらと、炎が立ち出した」
「ああ、見え始めたか」
「急がねばならぬ。まず、御座船おざぶね へのおわたりを」
その御座船を始め、磯辺に、築堤に、 ぎ寄せられた数百艘の内へ、一門の男女は、みな、分かれ分かれに乗り移った。
暇を与えた者や、自分から逃げ去った者など、人数は、ずっと減っていた。でもなお、総勢八千人はくだらない落人おちゆうど だった。どよめき、どよめき、海へ漂い出たのである。
もうそのころ、福原は、一面、火であった。会下山えげざん のふもとの家ばかりでなく、木も岩も赤かった。狂風が起こり、海には潮鳴しおな りがうねった。波間なみま 波間なみま の船さえ燃え上がりそうに見えた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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