〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-Z 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (九) ──
一 門 都 落 ち の 巻

2013/11/04 (月)  ぜん かん げん こう (三)

「今宵深夜に、さきの 太政入道だじょうにゅうどう 相国しょうこく のおん墓詣はかもう でをいとな まん。一門郎党はもとより、久しくさび れたる旧里にあって、故相国こしょうこく御恩顧ごおんこ を忘れぬともがらも、法華堂ほっけどう へ寄り合い給え」
その夕べ、平家の総領宗盛の名をもって、もれなく人びとへふれ渡された。
輪田わだ の浜の八棟寺はっとうじ には、都落ちのすべての者から、福原に留守していた数百名まで、およそ、心になお清盛を慕う面々は、下部しもべ にいたるまで集まって来た。
それらの人びとを前に宗盛は、
「この身のいたらぬゆえ、さしも、亡き入道相国の築きおかれたる、かほどな福原の海山うみやま の富も、都の門も、一炬いっきょ の灰として、旅泊りょはく の波にただよい出ねばならぬ日となった・・・・。ひいてはまた、おことらの罪なき者まで、路頭ろとう彷徨さまよ わすことかと思えば、死しても足らぬほどに思うが、死ぬにも今は死ねぬ身ぞ。ゆるして給われ」
と、心から び、かしら を下げた。
「あれよ、平家の御総領、内大臣おおい殿との とも仰がるるお人が、なんぞや、わしら下部しもべ の者に」
と、素朴な老少は、みな、顔を濡らして、
「たとえ海の果て、地の極みまでも、ぜひ、御供の端に加え給われ」
と、異口同音に、答えたが、宗盛はねんごろにさと して、
「海に覚えのある者は、漁夫ぎょふ となって暮らすがいい、山に身寄りのある者は、立ち帰って百姓の手助けなとせよ」
と、ある限りの物を取って、それぞれに、かたみに け与えた。
また、侍座さむらいざ の中から、宇都宮左衛門うつのみやさえもん朝綱あさつな 、ほか数名の東国武者を呼び出して、
和殿輩わどのばら の志は、ここまでで、もう満足じゃ。治承のころより今日まで、平家の内に留めおかれて、いかに故郷ふるさと 恋しの長い月日ではあったろうよ。国の妻子も、さだめし待ちつらん。明日はこの地を去って、おのおの、東国へ立ち帰るがいい」
と、帰国を許した。
「・・・・では、お暇をくださいますとな」
三名は、突然、まぶた をあかくした。身をわななかせ、しばらくは、両手をつかえたままだった。
宇都宮うつのみや 朝綱ともつな 、ほか、数名の者は、みな東国の武人である。けれど、彼らが大番おおばん として、都に在勤中、例の頼朝の旗挙げが起こり、彼らの息子や縁類の若者たちは、ほとんど、その旗下へはし ってしまった。
当然、平家は、在京中の東国武者を監禁した。当時、斬るべし、という世論もあったほどである。
しかし平家はこれを斬らなかった。それのみか、行状によって、捕虜の扱いさえ解き、自由の身として六波羅において来たものだった。
「このうえは、和殿ばらを召し連るるは、今日のわが身にくらべても、余りにむごい。とうとう、身仕舞いして東国へ帰れ」
宗盛の思いやりと寛大な仕方は、東国武者を泣かしめたのはもちろんだが、より以上に感動したのは味方だった。昼間の集議のさい、宗盛の愚痴や重大な手落ちを、つば せぬばかりに詰問なじ った知盛や教経なども ── 「ああ、根は善いお人だ、あのようにはずかし めて、すまなかった」 と、今さらのように、心で悔いた。
「夜も更けた。では皆して、おん墓所はかしょもう でようよ」
宗盛は、先に立って、くつ をはき、寺中の墳墓おくつき へすすんで行った。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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