「今宵深夜に、前
太政入道だじょうにゅうどう 相国しょうこく
のおん墓詣はかもう でを営いとな
まん。一門郎党はもとより、久しく寂さび
れたる旧里にあって、故相国こしょうこく
の御恩顧ごおんこ を忘れぬともがらも、法華堂ほっけどう
へ寄り合い給え」 その夕べ、平家の総領宗盛の名をもって、もれなく人びとへふれ渡された。 輪田わだ
の浜の八棟寺はっとうじ には、都落ちのすべての者から、福原に留守していた数百名まで、およそ、心になお清盛を慕う面々は、下部しもべ
にいたるまで集まって来た。 それらの人びとを前に宗盛は、 「この身のいたらぬゆえ、さしも、亡き入道相国の築きおかれたる、かほどな福原の海山うみやま
の富も、都の門も、一炬いっきょ
の灰として、旅泊りょはく の波にただよい出ねばならぬ日となった・・・・。ひいてはまた、おことらの罪なき者まで、路頭ろとう
に彷徨さまよ わすことかと思えば、死しても足らぬほどに思うが、死ぬにも今は死ねぬ身ぞ。ゆるして給われ」 と、心から詫わ
び、頭かしら を下げた。 「あれよ、平家の御総領、内大臣おおい
の殿との とも仰がるるお人が、なんぞや、わしら下部しもべ
の者に」 と、素朴な老少は、みな、顔を濡らして、 「たとえ海の果て、地の極みまでも、ぜひ、御供の端に加え給われ」 と、異口同音に、答えたが、宗盛はねんごろに諭さと
して、 「海に覚えのある者は、漁夫ぎょふ
となって暮らすがいい、山に身寄りのある者は、立ち帰って百姓の手助けなとせよ」 と、ある限りの物を取って、それぞれに、かたみに頒わ
け与えた。 また、侍座さむらいざ
の中から、宇都宮左衛門うつのみやさえもん朝綱あさつな
、ほか数名の東国武者を呼び出して、 「和殿輩わどのばら
の志は、ここまでで、もう満足じゃ。治承のころより今日まで、平家の内に留めおかれて、いかに故郷ふるさと
恋しの長い月日ではあったろうよ。国の妻子も、さだめし待ちつらん。明日はこの地を去って、おのおの、東国へ立ち帰るがいい」 と、帰国を許した。 「・・・・では、お暇をくださいますとな」 三名は、突然、瞼まぶた
をあかくした。身をわななかせ、しばらくは、両手をつかえたままだった。 宇都宮うつのみや
朝綱ともつな 、ほか、数名の者は、みな東国の武人である。けれど、彼らが大番おおばん
として、都に在勤中、例の頼朝の旗挙げが起こり、彼らの息子や縁類の若者たちは、ほとんど、その旗下へ奔はし
ってしまった。 当然、平家は、在京中の東国武者を監禁した。当時、斬るべし、という世論もあったほどである。 しかし平家はこれを斬らなかった。それのみか、行状によって、捕虜の扱いさえ解き、自由の身として六波羅において来たものだった。 「このうえは、和殿ばらを召し連るるは、今日のわが身にくらべても、余りにむごい。とうとう、身仕舞いして東国へ帰れ」 宗盛の思いやりと寛大な仕方は、東国武者を泣かしめたのはもちろんだが、より以上に感動したのは味方だった。昼間の集議のさい、宗盛の愚痴や重大な手落ちを、唾つば
せぬばかりに詰問なじ った知盛や教経なども
── 「ああ、根は善いお人だ、あのように辱はずかし
めて、すまなかった」 と、今さらのように、心で悔いた。 「夜も更けた。では皆して、おん墓所はかしょ
へ詣もう でようよ」 宗盛は、先に立って、沓くつ
をはき、寺中の墳墓おくつき へすすんで行った。 |