いつもの、丸い背を、よけい前屈
みにして、宗盛が元気なく戻って来ると、雪ノ御所の一殿いちでん
では、もう皆が待っていた。 ごく内輪だけだったが、この席で、小さい争いがあった。宗盛が、 「落去の直前に、たしかに命じておいたのに、池殿の陣へも、出先の肥後守ひごのかみ
貞能さだよし へも、知らせの使いが行っていない。池殿が都に居残り、貞能が暇を乞うて去ったのも、その腹立ちよ」 と、愚痴めいて言ったことから起こったのである。 「内大臣おおい
の殿には、去った者へ、なお、それほどの御未練にや」 と、新中納言しんちゅうなごん
知盛とももり 、能登守のとのかみ
教経のりつね など、気の立っている公達きんだち
ばらが詰め寄って、 「しからば、法皇の御出奔も知らず、ついに、大事な御一人を逸いつ
してしもうたのは、たれのせいでしょうか。仙洞 (法皇の御所) の儀だけは、宗盛が心得おると、のみこみ顔に、仰せ切ったではございませぬか」 と、その抜かりを彼に責め、また、 「主上は、おいとげなく、勅といっても、叡慮えいりょ
に出るものとは、たれも受け取りません。それなのに、法皇をお逃がし申してしまうなど、まさに、千載せんざい
の恨事です。内大臣おおい の殿の手落ちです。池殿などは、居残ろうと、東へ行こうと、犬に食われろ、知ったことかは」 と、教経のりつね
などは、耳を紅めて、言い散らした。 しかし、集議の顔ぶれは、およそ叔父甥おい
か父子か従兄弟いとこ 同士の濃い仲で、いわば親類会議にひとしい。なだめ人て
やしかり人て は、いくらでもある。割れたままになる惧おそ
れはまずなかった。 まして、一蓮托生いちれんたくしょう
の誓いはいうまでもない。やがて、原田大夫はらだのたいふ
種直たねなお と菊池次郎高直の二名も座に加わった。二人とも西国平家の雄将である。わけて種直は、清盛に愛され、小松殿の一女を妻ともしていた。──
座にいくれて見えたのは、船方ふなかた
の準備に努めていたのである。 「御座船おざぶね
を始め、大船数百艘、暁あけ にはそろいまする。水夫かこ
舵取かんどり は、松浦党、菊池党、それがしの手の者など、いずれも海上の手馴てな
れ、お案じなこように」 種直は、力づけたが、人びとは、内輪揉めもどこへやら、おのおのひしと顔色をひきしめた。 筑前の国大宰府だざいふ
とは、人の話や文書もんじょ では知っていたが、およそ、そこまで旅した者はまれである。九州といえば、東国と同様に、万里雲煙ばんりうんえん
の遠地が想像されるのだった。 「── 明日は波路なみじ
の上、ここも、今宵一夜ひとよ
ぎりぞ」 しかも、行く末どんな運命に待たれている身か、胸を噛か
まずにいられない。やや落ち着けば落ち着くで、思いは新たに、みな、行く手の空にあるのだった。 |