〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-Z 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (九) ──
一 門 都 落 ち の 巻

2013/10/31 (木)  ぜん かん げん こう (一)

── 次ぎの日、旅人のうわさには。
木曾の軍勢は、もう洛中に姿を現し、いたる所で、平家有縁うえん の者が、追捕ついぶ の兵に刈りたてられ、また諸所で大量は殺戮さつりく も行われたりしているという。
「── やがては、摂津の野も山も いて来ようぞ」
昆陽野こやの を立った平家一門は、絶えず後ろ風に襲われた。牛馬にむち 打ってなだれ合い、芦屋あしや御影みかげ の浜と、心もそらに急ぎつづけた。
生田川いくたがわ を渡ったとき、初めて、ほっとしたことであろう。ようやくようやく、そこは福原の旧里きゅうり であった。
平家のとって、ここは第二の故郷であり、都である。
亡きへい 相国しょうこく 清盛きよもり が、晩年の日のあらましを送っていた雪ノ御所をはじめ、花見はなみおか御所ごしょ 、月見の浜ノ御所、泉殿いずみどの松蔭殿まつかげどの 、馬場殿、二階の桟敷殿さじきどのかや御所ごしょ
また、ひととせ遷都せんと のあったころの皇居 ── さと内裏だいり
そのころは繁昌だった横縦幾条よこたていくじょう の町々やら、港の市やら、山のやしろいそ の寺々など、人影は絶え、鐘の音もさびれ果ててはいたが、なお、塔の先や、大屋根のいらか は、木の間にそのまま望まれる。
「ああ、わずか三年、故入道が、世を去り給うてよりは、まる 二年でしかない。それなのに、こうも変わり果てるものか」
一歩、旧里きゅうり の辻へ入ると、人々はみな懐古かいこ に胸をふさがれた。宗盛の別荘べっそう 、頼盛の別館、教盛のりもり重衡しげひら維盛これもり などの一族が門をならべていた、そこここの邸宅も、つた や雑草に埋もれ、屋根は烏がついばみ、門廊は風雨に朽ち、そして、野獣以外の人間にも荒され抜いたことであろう、どの館も例外なく、高欄こうらん の金具まで られていた。
「たれよりも、御老体の尼公にこう こそ、お疲れでおわそう。主上、女院にも、一夜二夜のおいこ いなくては」
輦輿れんよ を始め、二位ノ尼の輿こし も、ひとまず、清盛の旧居きゅうきょ 、雪ノ御所へ入った。
宗盛は、ひとやすみすると、さすが、母の尼公の体が、心配になって来たので、さそおく、老母のいるかや御所ごしょ へ来て、
「さだめし、身も心も、お疲れでしょうが、何もおさわ りはございませぬか」
と、いたわった。
「いいえ」
尼公は、日ごろのままだった。
「西八条を出たときから、わが身のことなど、思うているひまもありません。あなたこそ、人いちばい えたお体で、おも げな鎧兜よろいかぶと を着、どうあろうかと・・・・」
「なんの、わたくしはまだ三十代です。馴れぬ業といっても」
「ゆうべはようおやす みなされたかの」
「さすが、どうしても、眠れませんでした。つかのま、うとうとろしただけで」
「そのようなことでは、行く末、お体もつづきますまい。一門の御総領ごそうりょう 、重すぎるほどなものがあなたの肩にかかっておりまする」
「それゆえにです。眠りつくまも、とつこうつ・・・・」
「亡き入道殿は、どんなときでも、眠るだけは、よう眠るお方でした。側の者が、気が揉めるほど。・・・・せめて、そのことだけでも、お父君に似て給われ」
「いや、お案じくださいますな。父のようには参りませんが、時忠殿をはじめ、経盛殿、教盛殿など、みな宗盛を力づけてくださいます。やがてまもなく、一殿いちでん に集まって、西国への船支度やら、四国、九州、山陽山陰の有縁うえん の武士へ、召状めしじょう をまわす手配など談合いたすことになっておりまする」
集議しゅうぎ 集議しゅうぎ と、何事によれ、御一族へおはかりもよろしいが、あなた御自身、つねに大きなお考えとお覚悟がなくてはなりませぬ。── おいとけない主上をほう じ、あまつさえ、賢所かしこどころ三種みくさ御神器ごしんき まで流浪るろう のさきへお持ち出し遊ばしたのでございましょう。この国がはじ まってからないことでありましょうに」
「はい」
「それだに、お忘れなくば」
なぐさめるべく顔を見せに行った母から、子の彼は、かえって、逆に励まされた。
肥えているので、一見、重厚らしく見えるが、その内容はぶよぶよして頼りないことを、二位ノ尼もよく知っていたに違いない。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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