〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-Z 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (九) ──
一 門 都 落 ち の 巻

2013/10/30 (水) 赤 と ん ぼ (三)

御輿は、前四人、後ろ四人、八人ずつかつ ぐのであるが、なお十六名の肩代わりがいる。それらの輿丁組よちょうぐみ が、いざと、肩を入れかけると、平大納言時忠は、
「しばし・・・・」
と、止めた。
そして、輦輿れんよ のそばから、御簾みす の内へ、
「あれ、南の方を御覧ぜられよ。淀の大河をへだてて、ちょうど、この山崎の真向かいに見ゆる山が、男山です。── 男山八幡おとこやまはちまん 大菩薩だいぼさつ御社みやしろ
さっきからその事を言いあていたところとみえる。時忠が言ったのを合図に、馬、輿こし 、牛車、すべての乗り物をよそに、大地へすわっていた一門の男女は、男山の方角へ向かって、頻波しきなみ のように手をつかえた。
今は全平家すべてで、これだけであった。おもなる者はたれたれかといえば。── 前内大臣さきのないだいじん 宗盛むねもりへい 大納言時忠、門脇中納言かどわきちゅうなごん教盛のりもり新中納言しんちゅうなごん 知盛とももり右衛門督うえもんのかみ 清宗きよむね本三位中将ほんざんみのちゅうじょう重衡しげひら小松三位中将こまつさんみのちゅうじょう 維盛これもり
おなじく維盛の弟中将ちゅうじょう 資盛すけもり殿上人でんじょうびと には蔵人頭くらのかみ 信基のぶもと讃岐さぬきの 中将時実、左中将清経、少将有盛、丹後侍従たんごのじじゅう 忠房ただふさ
また、皇后宮亮こうごうぐうのすけえ 経正つねまさ 、左馬頭行盛、薩摩守さつまのかみ 忠度ただのり武蔵守むさしのかみ 知章ともあきら能登守のとのかみ 教経のりつね 、尾張守清定、淡路守清房、若狭守わかさのかみ 経俊つねとし蔵人大夫くろうどのたいふ 業盛なりもり経盛つねもり乙子おとご (末子) 無官大夫むかんのたいふ 敦盛あつもり兵部少輔ひょうぶのしょうゆ 尹明まさあきら ──
僧では、二位の僧都そうず 専親せんしん 、法勝寺の執行能円しぎょうのうえん 、中納言の律師りっし 仲快ちゅうかい 、経盛の義弟の ── 経誦坊きょうじゅぼう阿闍梨あじゃり 裕円ゆうえん
そのほか侍大将、諸国の受領ずりょう の武士、検非違使けびいし の侍、衛府えふ やら諸司しょし (諸役所)じょう のみでも百六十人。
すべてをあわ せ、それらの主将や家々の郎党だけでも、その勢七、八千騎と見られたが、なお、おびただしい数の各家の正室、側室、侍女、舎人とねり女童めわらべ 、老幼までを加えると、万を数えられるのではなかろうか。
夕べから、心も姿も、支離滅裂だったそれだぇの人間が、はしなくも今、しいんと、一つにおなったのを見、二位ノ尼の弟の平大納言時忠は、
南無なむ ──」
と、声を高めて、男山の方を伏しおが み、
「なにとぞ、われらをして、いま一度、故郷へ帰し入れさせ給え。ふたたび都へ戻させ給え」
と、祈りに祈った。
その を、東の方へ移すと、都の空は、まだ夜に国のようである。
門脇中納言教盛のりもり は、一首いっしゅ口誦くちず さんで 「── はかなしなぬし は雲井とへだ つれば 宿は煙と立ちのぼるかな」 と み、修理大夫しゅりのたいふ 経盛つねもり も、えびら の中の矢立やたて を取って

ふるさとを 野焼が原と かへりみて  末もけむりの 波路をぞ行く
と、懐紙かいし にしるし、御輿みこし の内の女院へそっとお見せした。
輦輿れんよ は、 き上げられた。
だが、馬進まず、人歩まず、列伍れつご は容易に前へ出ない。振り返り振り返り、なお都に心をひかれる公達武者きんだちむしゃ から、立ち淀む雑武者ぞうむしゃ の群もある。それを、叱咤しった するが、前がつかえて、馬ばかり、いななき狂わせている侍大将dの、簾の内から、すすり泣きをもらして行く四方輿しほうごし だの、花うるしの牛車など ── 吹き迷う山路の秋風や秋草の色とともに、繚乱りょうらん と、そよ ぎあって、亡命の流れと見るには、余りにも美しすぎた。
川尻には、叛徒はんと が出没するという。難儀でも芥川あくたがわ から山越えするに くはない。
それにしても、宇野辺うのべ の裏山も越えぬまに、秋の日は、すぐ暮れてくることであろう。夕風はいとど冷たかろう。牛一頭の牛車に、三頭も付けて、牛飼はムチを振り鳴らすが、しょせん、夜道をかけても、武庫川むこがわ の岸までは行けるかどうか。
「疲れても、眠とうても、昆陽野こやの までは」
と、人びとは励まし合った。そしてやっと、昆陽野こやの まではたどりつき、草深い田舎寺いなかでら の内と外で屯寝たむろね した。だれもかもくたくたになって、沼のように眠ったのである。昨日までの金殿玉楼きんでんぎょうろう にひきかえて、主上も女院も、枕の下に、こおろぎの くを聞き、素肌の荒壁にかこまれて、寒々と、冬鴨ふゆがも母子おやこ のように、抱き合うてお眠りになった。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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