御輿は、前四人、後ろ四人、八人ずつ舁
ぐのであるが、なお十六名の肩代わりがいる。それらの輿丁組よちょうぐみ
が、いざと、肩を入れかけると、平大納言時忠は、 「しばし・・・・」 と、止めた。 そして、輦輿れんよ
のそばから、御簾みす の内へ、 「あれ、南の方を御覧ぜられよ。淀の大河をへだてて、ちょうど、この山崎の真向かいに見ゆる山が、男山です。──
男山八幡おとこやまはちまん 大菩薩だいぼさつ
の御社みやしろ 」 さっきからその事を言いあていたところとみえる。時忠が言ったのを合図に、馬、輿こし
、牛車、すべての乗り物をよそに、大地へすわっていた一門の男女は、男山の方角へ向かって、頻波しきなみ
のように手をつかえた。 今は全平家すべてで、これだけであった。おもなる者はたれたれかといえば。── 前内大臣さきのないだいじん
宗盛むねもり 、平へい
大納言時忠、門脇中納言かどわきちゅうなごん教盛のりもり
、新中納言しんちゅうなごん 知盛とももり
、右衛門督うえもんのかみ 清宗きよむね
、本三位中将ほんざんみのちゅうじょう重衡しげひら
、小松三位中将こまつさんみのちゅうじょう
維盛これもり 。 おなじく維盛の弟中将ちゅうじょう
資盛すけもり 、殿上人でんじょうびと
には蔵人頭くらのかみ 信基のぶもと
、讃岐さぬきの 中将時実、左中将清経、少将有盛、丹後侍従たんごのじじゅう
忠房ただふさ 。 また、皇后宮亮こうごうぐうのすけえ
経正つねまさ 、左馬頭行盛、薩摩守さつまのかみ
忠度ただのり 、武蔵守むさしのかみ
知章ともあきら 、能登守のとのかみ
教経のりつね 、尾張守清定、淡路守清房、若狭守わかさのかみ
経俊つねとし 、蔵人大夫くろうどのたいふ
業盛なりもり 、経盛つねもり
の乙子おとご (末子)
無官大夫むかんのたいふ 敦盛あつもり
、兵部少輔ひょうぶのしょうゆ
尹明まさあきら ── 僧では、二位の僧都そうず
専親せんしん 、法勝寺の執行能円しぎょうのうえん
、中納言の律師りっし 仲快ちゅうかい
、経盛の義弟の ── 経誦坊きょうじゅぼう
の阿闍梨あじゃり 裕円ゆうえん
。 そのほか侍大将、諸国の受領ずりょう
の武士、検非違使けびいし の侍、衛府えふ
やら諸司しょし (諸役所)
の尉じょう のみでも百六十人。 すべてを併あわ
せ、それらの主将や家々の郎党だけでも、その勢七、八千騎と見られたが、なお、おびただしい数の各家の正室、側室、侍女、舎人とねり
、女童めわらべ 、老幼までを加えると、万を数えられるのではなかろうか。 夕べから、心も姿も、支離滅裂だったそれだぇの人間が、はしなくも今、しいんと、一つにおなったのを見、二位ノ尼の弟の平大納言時忠は、 「南無なむ
──」 と、声を高めて、男山の方を伏し拝おが
み、 「なにとぞ、われらをして、いま一度、故郷へ帰し入れさせ給え。ふたたび都へ戻させ給え」 と、祈りに祈った。 その眸め
を、東の方へ移すと、都の空は、まだ夜に国のようである。 門脇中納言教盛のりもり
は、一首いっしゅ を口誦くちず
さんで 「── はかなしな主ぬし
は雲井と隔へだ つれば 宿は煙と立ちのぼるかな」
と詠よ み、修理大夫しゅりのたいふ
経盛つねもり も、箙えびら
の中の矢立やたて を取って |