〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-Z 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (九) ──
一 門 都 落 ち の 巻

2013/10/30 (水) 赤 と ん ぼ (二)

都の常の御座所ならば、諸卿しょきょう の献上した玩具おもちゃ も、かずかずあった。しかしこの際である。みかどの玩具などは、つい御母も、典侍たちも、持たなかった。
老経盛は、根気こんき よく、むずがるみかどを、おなだめし抜いた。
「おう、おう・・・・。いまに、このじじもお相手して、なんなとお遊びいたしましょうわい。それには、ここらの野山より、もっともっと、よい所へ参りましょう。福原の港から、美しいお船に乗らせ給うて、海をば、西へ西へと行きますと、音戸おんど の瀬戸やら、厳島いつくしま などと申して、それはそれは景色もよく、みかどのお遊びにふさわしい天地がいくらでもございまするぞ。・・・・のう、そこへ、急ごうではございませぬか。さ、御輿みこし に召し給うて、西の海へ」
海と、聞かれて、みかどは、やっとおうなずきになったが、いざ御輿へとなると、みかどはまたも、御母おんはは のうなじにしがみついて、何事かを、小さなお声で訴えた。
御母は、その仰せを、うしろの阿波あわつぼねそつつぼね へ、ささやき伝えたが、みかどは、御ははとでなければいやだと言う。そいてせっかくのご機嫌もまた元へこじれそうになったので、
「では、みなも来やれ」
と、建礼門院自ら、お手をひいて、秋草の中へ入って行かれた。
武者の大群も、彼方にかす むほど歩いてから、御母は、立ち止まった。そして女官たちへ、
「みなは、後ろに離れ、ただ人屏風ひとびょうぶかこ っていて も」
と、いいつけた。
みかどは、御母の言葉も待たず、はぎ桔梗ききょう女郎花おみなえし などの乱るる上へ、すぐ、おはかま をめくって尿ねい をおそそぎ遊ばした。建礼門院は、御装束ごしょうぞくすそたす けながら、その無邪気な、お顔を仰いで、
「みかどは、良いお子様でいらっしゃいましょう。日の御子みこ でいらっしゃいますね。・・・ですから、この母を、今のように、もう困らせないでくださいまし」
「・・・・・うん」
「また、先ほどのように、関守小屋のかわや は、むさ いゆえいやじゃなどと仰せられてはいけません。旅路の厠は、みな、御所のようではございませぬ。厩路うまやじ のお宿でも、波路なら船の上でも、おきらいなく遊ばさねば・・・・」
「あい」
「おお、よう、よう、お分かりですこと」
御母とともに、小流ささなが れの水へかが んで、お手をきよ め、やがて元の所へ戻って来た。もう今度は、みかども、お愚図ぐず りなく、素直に輿こし の中へ入って、御母のひざに抱かれた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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