淀の流れに添い、洛中の煙をあとに、長い列を描いて落ちて行く一門平家の人びとは、二十六日午
ごろ、山崎の関戸せきど ノ院いん
(関所官舎) にかかっていた。 七月末は、なお残暑が強い。道もあれからまだわずかしか来ていないが、昨夜からの疲労と空腹に、人びとは、はやくも喘あえ
ぎがちだった。 「主上にも、さすが、飢ひも
じゅうおなりあそばしたとみえ、先ほどから御輿みこし
のうちにて、おむずがりの御様子よ。武者どももみな、汗まみれ、このあたりで、ひと息、息をつごうではないか」 教盛のりもり
のすすめに、大納言時忠もうなずいた。やがて、輦輿れんよ
のおそばから前後へ向かって、 「やよ人びと、かなたの関守せきもり
小屋へ、ひとまず御輿みこし を舁か
き据す えたてまつれ。そして、供奉ぐぶ
の面々も、炊かし ぎて、腹を満たし、牛にも馬にも糧かて
を与え、しばし休息するがよい」 と、告げわたした。 まもなく、関せき
の柵さく をめぐって、野に煮炊にた
きする無数の煙がにぎわった。しかしそのにぎわいも涙だった。つい昨日まで、西八条や六波羅の生活を思い比べ、また、兵たちは、別れて来た妻子が今日はどこで何を食べたか食べないでいるやら
── と考え出したことであろう。 ひとり、お無邪気むじゃき
なのは、幼い帝であった。山野の旅もいめずらしげだし、それに、供御くご
の器物もないまま、女房たちが、粳うるち
を茅ち の葉で包み、粽ちまき
にしてさしあげると、それがすっかりお気に入ったようだった。── おん母の建礼門院や典侍てんじ
たちは、ともすると涙なのに、みかどは、なんの御屈託ごくったく
もなく、そこらに群れる赤蜻蛉あかとんぼ
の一つの羽へ、そっと、小さいお手をお伸ばしになったりしている。 べつな輿こし
を降りて、一門の妻子や大勢の女房たちに囲まれていた二位ノ尼 (清盛の未亡人) は、建礼門院が、何も食べないのを憂えて、 「浮き沈みは、世の常です。初めてかかる目に会うあなたゆえ、お食しょく
の通らぬのも無理はないが、尼などは、西八条殿 (清盛) へ嫁とつ
ぐ前も、嫁とつ いでからも、いくたび似たような思いを越えたか知れません。・・・・ただ、そのころは、一族もまだ少なく、今とは、小さいと大きいとの苦労の違いでしかない。そして、そうした中にも、あなたたちを生み、この年まで生きぬいて来ましたぞや。・・・・あなたは、まして万乗ばんじょう
の君を生みまいらせた御国母おんこくぼ
」 ここまで言ったが、尼は、われから袖で顔をつつんでしまった。 あとは、何も言えないのである。言えば、余りに酷むご
い言葉でしかない。 ── が、建礼門院は、みかどの御母たる身として、自分への老母の気持はすぐ分かった。素直に、しかし、気をしっかりと張って見せて、 「今はまだ食もすすみませぬが、お案じ下さいますな、みかどの御成人までは、氷雨ひさめ
にも風にも、きっと、克か って行きまする。もう、今日限り、涙もお見せいたしませぬ」 と、静かに誓った。 ほんとに、そうした誓いを、いま、抱いたらしいおん黛まゆ
に見えた。 外では、平へい
大納言時忠や、子息しそく 時実ときざね
などが、 「輿丁よちょう
の人びとは、はや、御輿みこし
をこれへ据す え参らせい。余りに時を過ごすもいかが」 と、供奉ぐぶ
の出発を、性急に、うながしている。 建礼門院ももかどのお手をひいて起った。しsて、ふたたび輦輿れんよ
へ入ろうとしたが、みかどは急にだだをおこね遊ばして、 「乗るのはいや」 とばかり、泣き顔をきつく振って、おききいれの模様もない。 供奉ぐぶ
の一門男女、公卿、武者、雑色ぞうしき
、童わらべ までの一万余人は雲のように、それぞれの乗物や馬のそばに寄り合って、主上の召される八人舁かつ
ぎの御輿みこし が揺らぎ上るのを待つのだったが、どうしたのか、手間取っていた。 ──
見ると、老経盛ろうつねもり が、お側へ行って、建礼門院と一緒に、しきりに、みかどのご機嫌をとっている。 が、みかどは、なお
「いや、いや」 と泣かぬばかり、かぶりを振っておいでになる。 まだお六ツだし、言い出しては、やはり男の子である。鳥籠とりかご
の窮屈きゅうくつ さを嫌って、秋空を恋しがるのも御無理はない。
「── 歩く」 と仰っしゃってきかないのだ。踏んでみたこともない広い山野さんや
の土を、自然、その小さい御足みあし
で踏んでみたがるものとみえる。 赤とんぼと一緒に、自由に、駈け遊んでみたい疼うず
きにしゃくりあげられている御気色みけしき
だった。 |