貞能の意見でにわかに、道は、変更された。輦輿
を中央に、武者八千余騎、その中には、あらゆる形の輿こし
、あらゆる種類の牛車、幾百輌も交じって、秋風の中をゆく亡命の大行列は、果てなきまで、えんえんと西へ流れた。 それに背向そむ
いて、肥後守貞能は、宗盛と談合のうえ、部下五百余騎を連れて、淀で別れた。 しかし、彼の引っ返しは、池頼盛のそれとは違う。 「前後、すべての乱状、ことごとく、平家に利あらず、さいも天命の秋とき
とはいえ、木曾の駒音こまおと
に驚いて、一門、枯葉こよう となって西国へ落ち行き、清盛公相伝の府を守らんとせし一兵もなかりしとあっては、末代まで平家武者の名折れなれ、身にお暇いとま
を賜らば、京の中にいて、いかようにも成り果て申さん」 との願いで引っ返したものである。 ── で、彼は、西八条の焼け跡に、大幕を引かせ、 「われは、御一門の殿軍しんがり
。平家武者の一陣、なお、これにあるぞ。── 平家二十余年の恩顧を思う者は、これへ集まれ。ともども、木曾を迎え撃って、花と散ろうに」 と、揚言していた。 けれど、諸方へ離散したはずの者も、ここへは、一騎も寄って来なかった。 眼に見える限りの物は、焦土と、骨のような木々、瓦礫がれき
である。── でなければ、山猫やまねこ
のような盗児か、飢えた男女の、自失したような影でしかない。 一夜を、そこに明かし、 「これが、今日の西八条か」 と、七月二十五日夜の下弦かげん
の月を仰いだとき、貞能は、そつ然と、武者の身がいやになった。 その夜の内に、所を変え、小松殿 (重盛) の墓所を兵に掘らせた。そして土中の重盛の白骨を、 「高野の峰へ移し、安らかに弔とむら
い申せ」 と人に託し、軍を解いて、夜の明けぬまに、自分は遠く東国の宇都宮へ落ちて行った。もちろん、仏門に入る気であろう。 彼が、こんな発心ほっしん
を遂げて、たちどころに、修羅しゅら
相殺そうさつ の宿業しゅくごう
の外へのがれ去ったとは、翌日はまだ、たれも知らなかった。 そして、いったん退去した平軍の一部が、ふたたび洛内に帰って、戦備をしているといううわさだけが、強くひろまっていた。 「すわ、わが身の上」 と、怯おび
えたのは、さきに仁和寺附近の一院にかくれた池頼盛であり、 「── ここも、危あや
うからん」 と、騒ぎ立っている間に、様子を見に行った彼の侍者が、 「いずこへ去ったものか、けさは、肥後守貞能も見えませぬ。さしたることではなかったのでしょう」 と、告げたので、やっと、落ち着きをとりもどした。 かれが身をひそめた所は、仁和寺にんなじ
中の常盤井殿で、ここへは、洛内の騒ぎを恐れ給うて、八条の女院 (鳥羽帝の皇女) が先に避難されていた。 いちどは、追手かと疑って、恐れわなないた貞能も去って、頼盛の一難は、まず去ったかに思われたが、やがて、陽も高々と、のぼって来たころ、また新たなる恐怖が、彼をくるんでいた。 ──
夜来、待機していた木曾の将士が、書道から一せいに侵入を開始し、初めて、その姿を洛中に見せ始めた革命の跫音あしおと
だった。 |