〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-Z 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (九) ──
一 門 都 落 ち の 巻

2013/10/28 (月) 歯 が ゆ い お 人 (三)

「・・・・あ。肥後か」
貞能さだよし です。からくも、ただ今、引き揚げて参りました」
「供奉に間に合うて、よかったの」
「わが殿。・・・・その仰せは?」
片ひざついて、礼儀を失わずにはいるが、貞能の眼は、恨みに燃えていた。── 宗盛を見上げて、いかにも、口惜しげに見える。涙すらためている。
「肥後。何を気色ばんでいるぞ」
「あまりなお仕打ちと、無念にたえませぬ」
「なんとして?」
「かかる法外な大事を、よもや一夜のまに、御決定ごけつじょう ではありますまい。さるを、出先のわれら武者ばら には、なんの御内示もありませぬ。平家の御ため、一命をかざして、敵と戦うているわれらを打ち捨てて、一門西国へ落ち給うとは、いかなる仔細しさい でございますか」
「や。・・・・おこと の陣所へは、布令ふれ は行かなんだか」
「布令も沙汰もあらばこそ、物見の兵が、早耳に知ったのを聞いたのみです。よもやとは、惑いながら、もしや木曾の入洛かと、軍勢を引きまとめ、道も眼に見えぬほど、急いで来たわけでおざる。・・・・何がゆえに、この貞能のにには、一門御落去の儀を、さまでの大事を、お告げ給わらなかったのでしょうか。貞能には、得心とくしん がつきませぬ。御主君たりといえ、余りなおつめ たさではございませぬか」
なじるが如く、言うのである。
それをまた、茫然ぼうぜん と聞きながら、自分の手落ちを、自分でうなずいている宗盛であった。
「悪かった。肥後、そう怒るな、他意があったわけではない」
宗盛としては、知らせておいたつもりらしい。しかしこれは、池頼盛へたいしても同様におか していた彼の重大な手落ちだった。一夜の決定ではあるまいと貞能はいうが、さあ、となったのは一夜だった。いや半夜のうちといってよい。出先の諸陣へ使者を派すまもなかったし、また、その使者さえ、正確に、令を諸方へ伝達しえたかどうかも疑問である。
だが、貞能の身になれば、怒ったのも無理はない。
彼は七日ほど前、宇治、八幡やはた から川尻方面へ、手勢をひっさげて、合戦に出ていた。
木曾の応じて寝返りした多田蔵人ただのくろうど 行綱ゆきつな の一類を征伐するためである。行綱一類の暴状は、叛軍はんぐん というよりは、土匪どひ であった。掠奪、放火、姦淫かんいん 、あらゆる良民泣かせをやった。平家としては、彼の叛旗はんき よりも、西国地方から呼び寄せていた粮米船ろうまいせん を川尻でたびたび襲われたのが手痛かった。
それも、都落ちを決意するにいたった一つの致命であったといえなくもない。
また、それほどな致命となる川尻だけに、肥後守貞能が特に選ばれて馳せ向かって行った者である。それなのに、この始末だ、立腹は当然である。しかし、それの故意でないことが分かると、彼は、 「・・・・いやそのように、家臣へのおわびごと では、貞能、痛み入り間する。洛中の火急、さまでとは存ぜぬままに、つい、腹立ち紛れの雑言、平にお聞き流しのほどを」
と詫び、それから、川尻方面の物騒を告げて、
「主上の御輿みこし も、御一門の車馬も、淀の西を、軍勢にて囲ませ給い、陸路くがじ をお下りあるが安全かと思われまする」
と、あらためて考えを述べた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next