〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-Z 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (九) ──
一 門 都 落 ち の 巻

2013/10/27 (日) 歯 が ゆ い お 人 (二)

それにしても、盛嗣は、いつまでも業腹ごうはら でならなかった。彼は、侍大将の一徹者だ。実戦には、部下を殺し、自身も常に死を けている。内輪の破綻はたん に抱く憎悪ぞうお は、たれより烈しく、そして自然、憤激しやすい。
だから、彼の眼で見る内大臣おおい の殿は、歯がゆいほどお人がよい。── 世評、内輪でさえも、宗盛の人物評は、決して、かんばしいものではない。しかし、一面、その人のよさには、 れ込んでいる者もあった。盛嗣などもその一人である。 「その御気性だけは、 き清盛様に似通わらせている」 といい、ほかの似ていない点は、言わないのであった。
事実、池頼盛が、恨みに思ったほどには、宗盛の方では、悪かったとも感じていなかった。山科に出兵中の頼盛一人を、故意に、置き去りにしてゆく気などは、毛頭、なかったものらしい。
それはまもなく、宗盛が、淀川の岸辺まで、来ると分かった。
そこには、主上の輦輿れんよ が、彼をお待ちかねであった。輦輿をめぐ っては、一門の老将、公達きんだち 、侍大将、家人、郎党、女房車など、生気もない一万余の人びとが、おし のように黙ったまま、けさの秋風に吹かれていた。
「おう、内大臣の殿にも、追いつき召されたぞ」
「はや、一門のうち欠けたと思われる者もない」
「さらば、はや・・・・」
と、御輿みこし の近くから、人びとはざわ めき立ち、宗盛の姿を囲んで、なにやら評議をしていたが、やがて、左馬頭さまのかみ 行盛が、川の水際みずぎわ に立って、主上の御座船を呼びはじめた。
水の上にも、数百艘の小舟が揺れ揺れしていた。わけて大きな一艘は、主上のお召し用である。そてへ御輿を移しまいらせ、福原まで船で ── となっていたのである。
ところが、そのお支度中、
「御船では、心もとない。無用無用」
と、大声で止めた者がある。
たれかと見ると、ちょうどこの時、おくればせに駆けつけて来た一隊の兵馬があって、その先頭に見えた肥後守ひごのかみ たいらの 貞能さだよし だった。
貞能は、語気あらく、
「淀川の末には、怪しき舟影が、うろうろ見えた。陸路くがじ なれば、供奉ぐぶ の御守護にも頼りはあるが、水路を参られなば、漁夫ぎょふ の網を望んで、われから群をなしてゆく魚のようなものだ。危ないことだわ」
と、たれへともなく、言い散らし、馬を降りて、宗盛の方へ、ずかずかと、歩いて来た。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next