〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-Z 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (九) ──
一 門 都 落 ち の 巻

2013/10/27 (日) 歯 が ゆ い お 人 (一)

宗盛の指図の下に、京中の空が黒煙にみなぎり渡ると、それらの建物が、まだ完全な灰ともならないうちに、もう、得体えたい の知れない無数の人影が、火光の中に、活躍し出した。
木曾かと見れば、木曾兵でもない。
飢餓の都に満ちていたおびただしい浮浪者だった。異様なことには、多くの山法師も交じっていた。とにあく、木曾の都入りより彼らの方が一歩はや かったのはまちがいない。掠奪りゃくだつ 、暴行、満腹、あらゆる欲望を、この時に遂げなければと急ぐように、それらの徒の活動は目ざましかった。
始末のため、一門落去のさいごまで残っていた内府宗盛の軍隊さえ、うっかりすると、飢えの大群に襲われる危険があった。
「やよ。急げ」
紅蓮ぐれん をあとに、宗盛は、
女々めめ しゅう、かえりみすな。いでや、主上に追いつき奉れ」
と、淡路守清房、右衛門督うえもんのかみ 清宗きよむね などを従え、黒旋風くろつむじ のころがるように、淀の方へ落ちて行った。
すると、その途中で、越中次郎えっちゅうのじろう 兵衛盛嗣ひょうえのもりつぐ に出会った。
手勢を引き連れ、道を逆に向かって来たので、宗盛が、
「越中は、いずこへ行くや」
と、とがめると、盛嗣は、それより前に、馬を んで下り、宗盛の前へ来て、ひざまずいていた。
「しきりと、先刻よりお探し申していたところです。一言、おさしずを賜りたく」
「何事のあったるかよ」
「池殿には、御変心でおざる」
「池殿が?」
鳥羽殿とばでん の南の門にて、にわかに、異心をあらわにし給い、赤き旗を田へ投げ捨てて、洛中へ引っ返されました」
「やはり、池殿のはら は、そうだったのか」
「ただちに、盛嗣もりつぐ が追い参らせて、日ごろ、源氏と内応の罪、今日の御卑怯ごひきょう 、天罰は即座にこうぞと、お首をいただいて戻らんと存じまいたが、何せい、故前門こぜんもん (清盛)義弟君おととぎみ 、わが殿には、叔父君 に当らせ給うおん方とて、殿のみ許しなくばと思うて」
「いや、このような中で、追い討ちなどは、やめたがよい。いかに、異心を抱くお方でも、寝覚めがわるい」
「はて、わが内大臣おおい の殿のお人よさよ。それゆえ、多年にわたって、池殿こそ、御一門にありながら御一門と交わらず、一院 (法皇)御袖みそで にかくれて、私意をたくら み、また鎌倉とも、密書のやり取りなどして、源氏に利を与えて来られたのでおざる。今は、お見過ごしあるべきではございますまい」
「さはいえ、平家がこれほどな有様も冷やかに見捨て、よそに生きようとなさるものを、どうもなるまい。義理のおん仲とは申せ、かりにも、亡父君ちちぎみ の御舎弟、おん首などとは、思うだに恐ろしい。やめゆ、やめよ。もともと、わららとは、骨肉の感じも、義の分別わきまえ も、うすいお人よ」
と、言い捨てたきり、そう、気を悪くした様子もなく、ふたたび、道を急ぎだしたので、次郎兵衛盛嗣も 「今はぜひなし」 とあきらめたように、宗盛のあとから続いて行った。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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