やがて、御室
の宮みや は、 「・・・・料紙を」 と、侍者の行慶に命じ、行慶が供えた硯箱すずりばこ
の筆をとりあげて、 |
あかずして 別るる君が 名残をば 後のかたみに つつみてぞおく |
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と、別離の一首を、経正に餞別はなむけ
された。 「かたじけのう存じます」 押しいただいて、鎧下の肌着はだぎ
にそれを秘める彼の姿を見て、宮は、 「経正にも」 と、侍者お手から硯を与え、彼の返歌を求められた。 経正は、料紙をいただいて、それへ、 |
くれ竹の 筧かけひ
の水は 替かは れども なほ住みあかぬ 宮の内かな |
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と書いて、お答えした。 「やさしさよ」 と、いく度もお口のうちで誦よ
みながら、法親王の宮は、なお涙をあらたかにした。しかし、とうこうして、空は白みかけている。名残は果てしないも、経正は、さらに、まじまじとお顔をながめ、最後の一礼をして、床ゆか
を降りた。 ひそかに、前後の様子を、垣間見かいまみ
ていた仁和寺の童形どうぎょう
(稚子) や坊官や侍僧たちは、 「あわれ、ふたたび帰らぬ人の立つ」 と、門前にまで、見送って来て、別れを惜しんだり、慰めたり、励ましたり、いずれも、袖を濡らさぬ者はなかった。 中でも、法印行慶ほういんぎょうけい
は、葉室はむろ 大納言だいなごん
の子で、経正が稚子のころから、仲のよい友だちであったから、経正が、 「もうよい、いくら送ってもらっても、名残は尽きないから」 と言っても、 「もう少し先まで。いやそこまで」
と、いつか桂川のほとりまで一緒に来てしまった。 行慶も、そこで ── “あはれなり 老木おいき
若木わかぎ も 山ざくら おくれ先だち 花は残らじ”
と別離を詠よ んで、友に示した。 経正の返歌には
── “旅ごろも 夜な夜な袖を かた敷きて 思へば我は 遠く行きなむ” ── と、あった。 「行慶どの、さらばぞ」 自分を鞭むち
打つように、そう言い切ると、経正はもう後も見ずに駒を飛ばしていた。 やはて、約束の所に待ち合わせていた彼の手勢が、彼の来る姿を見るや、旗を振って、駒の前後に、むらがり寄って来た。そして、川霧の果て、淀のあたりに、主上の御輿みこし
の頂が、朝の陽ひ に、きらめくのを見、急ぎに急いで、やっと、追いつきまいらせた。 |