〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-Z 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (九) ──
一 門 都 落 ち の 巻

2013/10/26 (土) 「せい ざんべつ (二)

経正は、つつしんで、
「これは先年、わたくしへくだ し賜った青山せいざん の御琵琶でございます。思えば、身に過ぎた物ですが、生来、琵琶を好み、手解てほど きまでしていただいた御縁をもって、わたくしが十七歳の時、宇佐うさ八幡はちまん へ、勅使として下向いたしましたおり、おん手ずから賜ったのでこざいました」
「おお、そちが、宇佐の拝殿において、秘曲を き、供の宮人みやびと や神職たちに、涙をさえ催させたといううわさは、ひところ、都の語り草であったるよ。その青山をば、なんで今日、これへ侍参じたのか」
「家は捨て、都は去るも、なかなか、青山との名残は尽きぬ思いでございまする。さはいえ、さしものわがちょう の重宝、玄象げんじょう獅子丸ししまる とならんで、とう より海を渡って、いにしえはみかど の秘庫に封じられてあったと聞く、かほどな名器を ── いかにとはいえ、流亡の旅路へ、携えて参るには偲びませぬ。もし、荒ぶる戦いの間に砕くか、僻土へきどちり にでもしてしまっては、経正ごとき者の一命は果てこそあれ、御国宝みくにだから の大きなうしな いです。悔ゆるとも及びませぬ」
「・・・・うむ」 と、宮はうなずかれて 「それゆえ、預けに持って来たか」
御意ぎょい のとおりです」
経正は、すずやかな眉をした。
「万に一つでも、ふしぎな冥助みょうじょ があって、もし今日の運命が開け、都へ立ち帰る日がありましたら、その時こそ、かさねて、経正に、青山をくだ し賜りませ。・・・・が、おそらくは、このおん琵琶とわたくしとの、宿世すくせ の縁も、今日限りかとぞんじます。 ── ただ、大唐だいとうちょう よりわが村上帝に伝えられ、後、師の君のおん手にも、朝夕御鍾愛ごしょうあい あらさられた名器を、たとえ、幾年か間たりと、身に持って、転手てんじゅ に手をかけたかと思えば、よき恋人と、宿世すくせ を供にしたようなよろこび を忘れ得ません。・・・・過分な倖せであったよと思いまする。・・・・今は、末長く、御座のかたわらに置かせ給い、青山の音色ねいろ の蔭には、経正ありと、思し召しくださいませ。経正は死すとも、師の君のおつつがなきを、あの世からも、お守り申しておりましょうゆえ」
「・・・・・・」
宮は、法衣の袖ぐちで、いつか、御眼をぬぐうている。
経正も、あとは、言葉もない ── ただ、青山の一器の前に、冷やかな大床に、身をひれ伏しているだけだった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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