経正は、つつしんで、 「これは先年、わたくしへ下
し賜った青山せいざん の御琵琶でございます。思えば、身に過ぎた物ですが、生来、琵琶を好み、手解てほど
きまでしていただいた御縁をもって、わたくしが十七歳の時、宇佐うさ
の八幡はちまん へ、勅使として下向いたしましたおり、おん手ずから賜ったのでこざいました」 「おお、そちが、宇佐の拝殿において、秘曲を弾ひ
き、供の宮人みやびと や神職たちに、涙をさえ催させたといううわさは、ひところ、都の語り草であったるよ。その青山をば、なんで今日、これへ侍参じたのか」 「家は捨て、都は去るも、なかなか、青山との名残は尽きぬ思いでございまする。さはいえ、さしものわが朝ちょう
の重宝、玄象げんじょう 、獅子丸ししまる
とならんで、唐とう より海を渡って、いにしえは帝みかど
の秘庫に封じられてあったと聞く、かほどな名器を ── いかにとはいえ、流亡の旅路へ、携えて参るには偲びませぬ。もし、荒ぶる戦いの間に砕くか、僻土へきど
の塵ちり にでもしてしまっては、経正ごとき者の一命は果てこそあれ、御国宝みくにだから
の大きな失うしな いです。悔ゆるとも及びませぬ」 「・・・・うむ」
と、宮はうなずかれて 「それゆえ、預けに持って来たか」 「御意ぎょい
のとおりです」 経正は、すずやかな眉をした。 「万に一つでも、ふしぎな冥助みょうじょ
があって、もし今日の運命が開け、都へ立ち帰る日がありましたら、その時こそ、かさねて、経正に、青山を下くだ
し賜りませ。・・・・が、おそらくは、このおん琵琶とわたくしとの、宿世すくせ
の縁も、今日限りかとぞんじます。 ── ただ、大唐だいとう
の朝ちょう よりわが村上帝に伝えられ、後、師の君のおん手にも、朝夕御鍾愛ごしょうあい
あらさられた名器を、たとえ、幾年か間たりと、身に持って、転手てんじゅ
に手をかけたかと思えば、よき恋人と、宿世すくせ
を供にしたような歓よろこび を忘れ得ません。・・・・過分な倖せであったよと思いまする。・・・・今は、末長く、御座のかたわらに置かせ給い、青山の音色ねいろ
の蔭には、経正ありと、思し召しくださいませ。経正は死すとも、師の君のおつつがなきを、あの世からも、お守り申しておりましょうゆえ」 「・・・・・・」 宮は、法衣の袖ぐちで、いつか、御眼をぬぐうている。 経正も、あとは、言葉もない
── ただ、青山の一器の前に、冷やかな大床に、身をひれ伏しているだけだった。 |