おなじころ、かの経盛
が嫡子の、皇后宮亮こうごうぐうのすけ
経正つねまさ も、西下の人びとにおくれて、従者五、六騎を連れて、仁和寺の御室おむろ
ノ御所ごしょ へ急いでいた。 経正は、八歳のころに、仁和寺へ入れられて、十三の元服まで、稚子ちご
として、御室に仕えたことがある。 初歩の学業もここで受け、和歌、音楽、仏典、左方などの躾しつけ
も、すべて仁和寺で習まな びを受けた。──
いわばここは彼の童心のふるさとであり、御室の宮は、師でもあり、里親さとおや
にも似たお人なのである。 「なに。経正殿とな」 番僧たちは、門を打ちたたく訪おとず
れに驚いて、奥へ駈け、坊官ぼうかん
の詰つめ の者に、 「夜来やらい
、都は、未曾有みぞう な異変の中にあるやにうかがわれまする。かかるな中を、平家の客に門を開いては、いかがなもので」 と、すでに後日のたたりを恐れるような口吻こうふん
で指図を仰いだ。 木曾兵はまだ洛中に見えないまでも、その圧力は、洛外諸寺院へ、もう、じかに伸の
しかかって来ている。坊官も侍僧さむらいそう
たちも、 「うかとは、門を開けられまいぞ。たとえ、修理大夫殿 (経盛) の御嫡子であろうとも」 と、かたずをのんで、ためらった。 すると、御室おむろ
の侍者じしゃ 、大納言の行慶ぎょうけい
法印ほういん が、この由を聞いて、そっと、宮の御意ぎょい
を伺った。 「むかし、稚子ちご
としていた経正殿が、さいごのお暇にとて、御門側ごもんそく
まで来ておりますが、どういたしましょうか」 すると、法親王は、 「経正が別れに来たか。時ならぬ時刻を思えば、なおさら、よくよくな思いと見ゆる。さしつかえない。内へ入れよ」 と、許された。 宮は、後白河の第二の皇子、守覚法親王しゅかくほっしんのうである。稚子のころから今日まで、宮の御愛情にもお変わりなかった。何かにつけて目をかけておいでだったのである。 侍者の行慶法印は、ふたたび、御前にもどって、 「思し召しを申しつたえましたるに、経正殿は、涙ぐんで喜びましたが、甲冑かっちゅう
をよろい、弓箭きゅうせん を帯たい
して、あらぬ様なる装いに候えば、御前に罷まか
るも、憚はばか りなれと、なお遠くに控えておりまする」 と、取次いだ。 「あわれなる遠慮かな。ほかならぬ今の場合、日ごろの行儀ぎょうぎ
はいらぬ。その姿のまま、ただ、まかれと申せ」 行慶は、宮のお言葉を、経正に伝え、ほどなく、彼を後ろに連れて、御座ぎょざ
の前なる小坪こつぼ
(小庭) にひかえさせた。 その日、経正の装いは、紫錦むらさきにしき
の直垂ひたたれ に、萌黄匂もえぎにお
いの鎧を着、姿のよい太刀を帯たい
し、兜かぶと は、脱ぬ
いで背へ懸けていた。 重藤しげとう
の弓を横に、ぬかずいていると、出御しゅつぎょ
の気配がし、御簾みす が高く揚がった。そして、 「経盛か。よう見えた。これへ、これへ」 と、さい招くのは、まぎれもなく、なつかしいお方の声である。 「では、おゆるしあお」
と、階きざはし を上って、経正は正面の大床おおゆか
にあらためて座を賜り、さて ── 「行くては西海千里のかなた、またいつの日に、お姿を拝し得るかどうかもわかりませぬ。すでに、みかどを始め奉り、一門落去らくきょ
の途と に混みおうておりますが、つかの間、お別れに参さん
じました」 と、多年の恩育を謝した。 そして、供の侍、藤兵衛尉とうひょうえのじょう
有教ありのり の手から、赤地錦あかじにしき
のふくろに入れた一面の琵琶びわ
をうけ取って、うやうやしく、御前にさし置いた。 宮には 「何か?」 と、御不審な面持ちで、彼の姿と、その品とヘ、等分におん眼をみはられた。 |