「・・・・・・・」 俊成は、まじろぎもせず、底面の人の影を見ていた。感動を感動のままに措
いて、言葉にすることを忘れている。 そのあいだに、忠度ただのり
は、鎧よろい の脇立わきだて
の紐を解き、ふところから一綴ひととじ
の帖ちょう を取り出して、身をすすめた。そして、 「お恥かしゅう存じますが」 と、縁の端に置いて、またあとへ退がった。 俊成は手に取り上げた歌の帖を、しばらく見ていたが、やがて、心から心へ、しかと約するように、静かに言った。 「日ごろの心忙しさにさえ、なかなか、人は取紛とりまぎ
れるもの。まして御一門都を落去、後も先も、ただならぬさいに、ようこそ、お訪ねくだされた。── この詠草えいそう
とてまた、血ぐさい兵馬のあいだに、やさしきお心がけを留めおかれたもの。いわば歌の一首一首が生命いのち
のお形見であろう。歌詠うたよ
まんがための作り歌とは事ちがう。ゆめ、疎略そりゃく
にはいたしますまい。── 忠度どの、おかたみは預った。心おきのう、西国へお立ちあれや」 「ありがとう存じまする」 露の中に、その人影は、ひれ伏して、 「いずれは武門の末路、かばねを野にさらし、はかなき名を、西海に流すことでしょうが、これで、思いおく事もありません。・・・・さらば、おいとま申して」 と、庭戸を辞して、もとの槐えんじゅ
の木の下に立った。 かぶとの緒お
をしめ、駒にまたがり、数歩去ったが、去りがてに、その影は、もいちど、槐の門を振り向いていた。そして、和漢朗詠集わかんろうえいしゅうの中の、 前途ぜんと
程通ほどとほ し 思ひを雁山がんざん
の夕べの雲に馳は す という一詩句を口誦くちず
さみながら、また暗い朝霧の中へ駈け去った。 俊成は子の定家ていか
とともに、門まで出て、その姿を見送っていたが、父子ともに、涙を目にため、やがて黙々と門をとざした。忠度が遺した自集の帖には、秀すぐ
れた歌が少なくなかった。── それから年月としつき
も流れて、もう名ある平家人のたれひとり世に生存しないころになっても、俊成は、おりあるごとに、忠度の歌がたみを取り出しては、その時のことを、人にも語った。 また、彼の撰せん
になる “千載和歌集” もやがて大成されていたが、あまたな歌人才媛かじんさいえん
の代表的な名歌のうちに、「故郷の花」 と題して、 ささなみや 志賀の都は荒れにしを むかしながらの 山ざくらかな の一首が載せられてあった。これは、
「秀歌の中の秀歌である」 と、人びとの愛誦あいしょう
にのぼったが、作者の名は、 「読よ
み人びと 知らず」 になっていて、久しく、そのたれなるやもわからなかった。 忠度が遺した百余首しゅ
の中の一作だったのはいうまでもない。しかし、平家没落とともに、みな “勅勘ちょっかん
” の科人とがびと となり終わったので、世をはばかって、俊成がわざとその名を伏せておいたのである。 しかし、さらに時世も鎌倉に移って、俊成の子、藤原定家が
「新勅撰集」 を編あ んだときには、公然、薩摩守忠度、と名もあらわに再録された。 |