ここにまた、薩摩守
忠度ただのり は、主上しゅじょう
の御輿みこし に従って、一度六波羅泉殿いずみどの
を立ったのであるが、途中何を思ったか、供奉ぐぶ
の列を脱ぬ け、侍五騎に、童武者わらべむしゃ
一人、自分ともわずか七騎ほどで、元の道へ取って返した。 そして、五条京極きょうごく
の近くまで来ると、従者にむかい、 「人目だたぬよう、しばしこの辺りにて待て」 と、とどめおき、自分だけ、一つの小路を曲がって行った。 いずこの邸宅も真っ暗である。燈影はおろか人の気配もない。 彼はやがて、大きな槐えんじゅ
の下で、そっと、鞍くら からとび下りた。手綱を、その幹へまわして結いつけながら
── 「ああこの門かど の槐の木、おまえとももう別れだなあ」
と、言いたげに仰向いた。 年ごとの初夏ごろには、あの小さい蝶形ちょうがた
の内気な花が、門にも地にも、いっぱいにこぼれ、客の足痕あしあと
が、淡雪あわゆき を踏んだようにあとに残る。 そのころのしずかな世間や、心の愉しめた日のことどもが、ふと忠度ただのり
の胸をよぎった。彼が、ひそかに恋していた意中の女性も、この門辺かどべ
に牛車をとめ、おなじ槐の花の淡雪に足あとを印していた一人であったのではあるまいか。── でなければ余りにも、もの言わぬ槐へ多感な彼の佇たたず
みであった。 「昨日今日の騒がしさに、もしや、難を避けて・・・・?」 彼は、門のそばへ歩み寄った。 そして、公卿門と違って、黒木の柱に柴しば
をあつく葺ふ き、竹を編あ
んだ袖垣そでがき の葛かずら
かあけびの葉が絡から み茂っている。──
忠度は思い切ったふうで、そこの扉とびら
を、がたがた揺すぶったり、たたいてみたりして、 「時ならぬ今ごろ、心なき訪れなれど、俊成卿しゅんぜいきょう
のおん内へもの申す。── 御弟子みでし
か召次めしつぎ の方なとあらば、開けて給われい。ここへお顔なとかし給え」 と、何度も言った。 答えはない。人の来るらしい物音もしない。庭の内は、月の色と露と虫だけの静寂しじま
であった。 「やよ、開け給え、師の君へ、お別れを告げばやと、お門辺まで立ち寄ったるなれ。── 決して、怪しい者ではない」 すると、虫すだきを、しばらく措お
いて、やっと、邸内のどこかで、 「誰た
ぞ?」 と、問う声がした。 さては、人がいたかと、 「さん候う。忠度ただのり
」 と、すかさず答えた。 それまでの静けさとは打って変わって、急に、物怯ものおび
えする屋の内の騒ざわ めきが外までもれて来た。
「押し込みよ」 「いや、落人おちうど
の逃げ戻りよ」 「どうしたものか」 などという切れ切れな言葉も聞こえる。 忠度は、一だん声を高めて、 「これは、今生こんじょう
のおいとまをかね、師の三位殿さんみどの
(藤原俊成) に、ささやかなるお願いの候うて、供奉ぐぶ
の途中より、しばし、返し参ったる西八条殿 (清盛) の義弟おとと
、薩摩守さつまのかみ 忠度ただのり
にちがいありません。世上の物騒、無理ならねど、なお、怖ろしゅう思し召すなら、この垣際かきぎわ
まで、お立ち出でください」 「・・・・・・」 「たとえ、門の戸は、開けずともよし、どなたなりとも、ここまで来て給わるまいか。お取次ぎだけでもしてくださるまいか」 忠度は、しきりにたたく。──
余りに供奉の列に遠くおくれてはと、心も急ぐので切々せつせつ
と言った。 さっきから、屋の内に息をのんでいた藤原俊成は、初めて、縁えん
の端へ姿を見せて、 「おう、覚えの直声ではない。かの人なれば、歌の門人。久しく、歌も寄せず、姿も見なんだが、時も時、何事の訪おとず
れやらん。・・・・ともあれ、開けて、お入れ申せ」 と、召使へいいつけた。 |