〜 〜 『 寅 の 読 書 室 Part U-Z 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (九) ──
一 門 都 落 ち の 巻
2013/10/24 (木)
維
(
これ
)
盛
(
もり
)
都
(
みやこ
)
落
(
お
)
ち (二)
維盛は、なお、さとした。
「とかく、世の行く末も、どうなるやらと思うにつけ、二人の幼い者だけは、親として、あえなき
犠牲
(
にえ
)
にはさせたくない。そなたは、まだ若いことゆえ、どうよな人へなりと、二度の
嫁
(
とつ
)
ぎをして、あの幼い者たちを、ただ、すこやかにのみ、
育
(
はぐく
)
んでくれい。それだけが、維盛のたのみぞ」
「むごい仰せを」
と、北の方は、良人のひざにすがって、なおさら、嘆きもだえた。
「父母もないわたくしです、いままた、どこへ身を寄せましょう。二度の
嫁
(
とつ
)
ぎをせよなどという仰せを、あなたのお口から聞こうとは、夢にも思いませんでした。二人の
小夜
(
さよ
)
の
睦語
(
むつごと
)
は、みな、
嘘
(
うそ
)
になるではございませんか。たとえ、道に行き仆れようと、海のもくずになろうと、お別れするのはいやです。どんな辛さにも耐えてみせます。── さまで、幼い者を、ごふびんに思し召すなら、ともにお連れ遊ばしくださいませ。・・・・」
いじらしいい者よと、維盛も、立ち上がる気力をつい失っていた。
引
(
ひ
)
き
被
(
かず
)
いた
五衣
(
いつつぎぬ
)
は、
蝶
(
ちょう
)
の破れ羽のようにふるえ、長やかな黒髪も、暁近い
燭
(
しょく
)
に濡れて、恨むがごとく、維盛の手へ冷やかに
絡
(
から
)
みまとう。
「もう、いっそ」
維盛は、心のうちで、何度それを、べつば意志にささやかれたことか知れない。
── が、一門の
絆
(
きずな
)
をおもい、小松重盛の嫡男である身をおもい、また、これまでの征野で死なせた多くの部下のことを思うと、みずから、
生木
(
なまき
)
を裂くことに
克
(
か
)
たなければならなかった。
「いっても、嘆いても、名残は尽きない。もう、夜も明けよう。けさの
行幸
(
みゆき
)
におくれては、一門の人びとに会い参らせる顔もない」
重いばかり涙にまみれた妻の身を、彼は、ひざから押しのけた。
良人のその手を、北の方は、引き被いている袖の下に取って、離すまじき力をこめた。自分の横顔をそれへ
載
(
の
)
せて、今は、よよと、しゃくりあげるのみだった。
「わるかった。二度の
嫁
(
とつ
)
ぎをせよなどと言ったのは、維盛の思いすぎ。そなたが待つものならば、やがて、いずこの
浦
(
うら
)
にか、落ち着くところを得たときに、人を迎えによこすであろう。・・・・のう、それまでの別れぞ。かりの別れぞよ。心得て給も」
「では、かならず」
「忘れまい。それまでは、かならず死ぬまい。そなたも、世の蔭をたのんで、どのようにも、生きてゆくことぞ」
「・・・・死にません。お便りを、ただ、たのしみに」
ふたりは、しばしの
抱擁
(
ほうよう
)
に
黙
(
もだ
)
しあった。夫婦という日ごろのかたちのものを、かたちだけでなく、今こそ、燃やしあった。しょせん、二人は二人でなく、その生命は、いつか、一つのものであったのである。
著:吉川 英治 発行所:株式会社講談社 ヨリ
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