〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-Z 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (九) ──
一 門 都 落 ち の 巻

2013/10/23 (水) ふる き (四)

「やあ、この煙は、なんとしたことぞ。どこか、近くまで、火が迫っているとみえる。── やおれ、そこな牛飼、わしにムチをあkせ。わしが、牛を追ってみせる」
高直は、自身で、牛のしり を、追い立てた。
事実、風が変わって、狂奔する落人の大群の上に、煙が逆巻き、火の粉が、さかんに落ちていた。
「牛よ、走れ、もっと、駆けろ」
車廂くるまひさし は、大きく揺れ、まるで波上はじょう の物に見えた。それでも、なお急ぎ足りないように、進藤しんどう 高直たかなお は、牛を追っていたが、そのうちに、道ばたの小溝こみぞ の中へ、片方の車の輪を、おと してしまった。
もう、いくら打っても、ののしっても、牛は、一歩だに前へ出ない。高直は、ひたいの汗を、手の甲で、こすりながら、
「これや、弱り果てた。たれぞ、摂政殿の為に、ほかの車を、さしあげてくれる者はないか。・・・・やよ方々かたがた 、摂政殿のお乗り物を、急いで、御都合して参られよ」
と、まわりの武者へ向かって言った。
武者たちの眼つきは、それどころではない。うしろには、火つむじ、耳には、木曾乱入のあらぬうわささえ聞こえて来る。
「やあ、この中で、他家の車など、たれが貸そうや。ほかの女房車へ、一緒に召されい。まごまごしておると、煙に巻かれるか、木曾の捕虜とりこ になり果てるぞ」
彼らは吐き捨てるように言った。一人去り二人去り、いつかみな先へ駈けてしまった。依然、人馬はなお続々と西へさして行くが、路傍に損じている片輪車など振る向く者のない。
高直は、車の簾を、外から掲げて、
「いざ、うしろの女房車の内へ」
と、せきたてた。
基通とその妻子は、ほかの車へ身を移した。路傍の破れ車はおき捨てて、二輌の女車のみが、ながえ の向きを急に変え、都へ引っ返して行ったのである。当然、行きちがうあまたな眼は、いぶかしげにそれを見た。中には、追っかけて来る者もあった。
けれど、女車であったのが、何よりも倖せした。まさか、摂政殿が、引っ返すものとは、たれも、気づかなかったのである。── 車は、いくたびも、ほのお に吹かれ、煙に追われ、大宮を北へ、駈けに駈けて、紫野むらさきの知足院ちそくいん の内へ深くかくれた。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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