〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-Z 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (九) ──
一 門 都 落 ち の 巻

2013/10/23 (水) ふる き (三)

摂政せっしょう 藤原基通ふじわらもとみち の牛車は、七条大宮の端れを西へ、がらがら急いでいたが、車の の中でさえ、煙にむせた。
彼は、あでやかな夫人と、女子二人を、両のひざに抱き寄せていた。そして、
「死ぬも、ひとつぞ」
と、妻の耳へ、何度もささやいた。
夕べの夜半までも、彼は、今暁こんぎょう の西国落ちなどを、夢にも、知っていなかった。
どやどやと、迎えに来た武者の一群に、いきなり 「主上に供奉し給うて、ただちに、西国へおもむ かれよ」 と言われたのである。無我夢中というほかはない。
しかし、主上を始め法皇にも御西下と聞かされたので、基通は、妻子のほか、二輌にりょう の女車を従えただけで、車駕しゃが のあとを慕うべく、門を捨てて来たのであったが、道々の混雑ぶりに、
「余りなるあわただしさよ。もしや、法皇には?」
と、ふと疑いを起こした。そのとき、ちょうど、月輪殿つきのわどの (九条兼実) の住む山下を通ったので、
「よも、かの君は、平家とともに、落去はすまい。門をたたいて、直々じきじき仙洞せんとう (後白河) の御動静を、しかと、確かめて参れ」
と、家臣の進藤しんどう 高直たかなお を、途中からそっと使いにやっておいた。
高直は使いを済まし、やがて、人波の間を縫って、先へ行く摂政殿の車をやっと見つけた。そして追いすがるやいなや、車の物見 (窓) を、外からハタハタと打ちたたいて、
「お忘れ物、見つけて参りました」
と、基通もとみち のひざへ、小さく結んだ紙切れをさし落とした。
まぎれもない月輪殿つきのわどの の筆である。その兼実は、彼には叔父にあたる間でもあり、また永いこと、平家の権威にも屈しないで、しかも、とにかく摂?せつろく の家の格式を、もち支えて来たお人でもあった。
「・・・・あっ・・・・しもうた」
彼は、一読するなり、うろたえを、あらわにした。
兼実の文には、後白河が、夜半の頃に、どこともなく、御逐電ごちくでん になったようだと、書いてある。 「── 客、家僕等モ、左様ニ、ミナ申スモ、御行方ハ未ダ知レ申サズ」 とも付け加えてあった。
「高直、高直」
こんどは、内から。基通もとみち が、心せわしげに、たたいた。
「はい、はい、御用に儀は」
高直は、車と一緒に、小刻みに けながら、物見の下へ顔を寄せた。
「なんとしたものぞ。・・・・のう、高直」
「今のは、御覧ごろう じなされましたか」
「見たゆえに」
「さらば、高直に、お委せください。ひと思案、いたしまする」
「思案をめぐらすか」
御車みくるま をめぐらしたいのでございましょう」
物見の小簾こすだれ の中で、基通の眼が、きっと、思い入れを見せてうなずいた。
が、この摂政車とほかの女房車には、武者ばら の眼が光っている。列の前後について、遅れがちさえ、やかましく言うのである。後ろへ、引っ返そうにも、車をめぐらす口実がない。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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