〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-Z 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (九) ──
一 門 都 落 ち の 巻

2013/10/23 (水) しゆ じよう みやこ ち (四)

まず第一に待たれたのは、摂政せっしょう 基通もとみち の姿であった。途中でたしかに見たという人びとも多いのに、どうしたのか、まだ着かない。
いや、それよりも、困ったのは、一門の総領であり、全軍の総大将である前内大臣さきのないだいじん 宗盛むねもり が、見えないのである。宗盛がいないでは、どうしようもない。はやくも、主上の御輿みこし と、内侍所ないしどころ唐櫃からびつ など、初秋の風光る中に、行き暮れ給うお姿であった。
── その西風の吹いて行くかなたに、人びとはややもすれば、しぐ心をひかれ、眼をふり向けた。
都、都、住み馴れたあの都。
今日さっていつ帰るとも知れぬ都。
ここに立った一人一人には、身につながるいと しい人も、別れ難い老父母も、幼い子らも、みな、足手まといとして、そこに残して来たのである。
「どういして、この先を、あすを、生きて行くやら」
別れたたれかを、想っていないひとみ はない。
すると、その眸に、かなたの遠い炎が映った。洛中の屋根の上からである。やちまち、大きな黒煙をともない、見る間にそれは、巨大な火の柱になって、朝の を暗くし出した。
しかも、一箇所や二箇所ではない。
六波羅の空、西八条の空、そのほか、京中二十余箇所から、前後して、えんえんと、燃え揚がって来たのである。
「おおっ、お味方の手で、火が けられた」
「立ち退くからには、後に一物もとどめまいぞと、前もってのお布令ふれ ではあったるぞ。その火は、あれか」
「あわれ、六波羅、池殿、小松殿、八条、西八条なども、いまはちり あくた のごとく、焼き払われているぞよ」
「おれどもの家々も、あの火の下であろう。無残やな、無常むじょう やな」
「でも、、おのが住家すみか を、木曾のやつばらに、思うままにされるよりは」
「さはいえ、悲しいぞよ。どう思っても、悲しいことだ。あの美しい都が消えて、ただの焼け野原になるかと思えば。そして、ついゆうべまでは、妻子とともにいた家もほのお になっているかと思えば」
兵は、手放しで泣いた。みな、頬を涙で濡らしたまま、茫然ぼうぜん と、われも忘れている。
まして一門の公達は、いうまでもない。哀惜の涙には、無念がこもった。清盛の在りし日を思い、その苦闘と建設と栄えにいたるまでの過去を、平家とともに生きて来た年長者には、なお、たまらない苦痛だったにちがいない。自らの手で、自らの身を、生きながら火葬に附している思いであったろう。
「やあ、分かった。内府殿の遅いは、あの火放ひつ けのせいじゃ。手落ちのなきよう、あとの芥焼あくたや きを、おさしずしているためであろう。追っつけ、 せ参られるにちがいないわさ」
修理大夫経盛が、馬上で言った。
亡き清盛のすぐ下の弟である。六十一歳ともなると、これほどな悲痛さにも、あさいて感情をつかれないものか、彼のみは涙もせず、といって、猛気に駆られた風でもなく、日ごろ、和歌や笛の話をする時のような温顔のままで、人びとへそう言っていた。その、低めな経盛の声が、遠くにまで聞こえたほど、喧騒けんそう も混乱も、ひそとして、なぎさ の水音だけがそこにはあった。そして数千の将士は、ことごとく、ふたたび夜に返ったような空に向かって、黙然と、両の をあわせていた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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