すると、そのころになって、たれからともなく、 「法皇は、平家の内にはおわさぬというぞ」 「夜のうちに、いずこへか、御出奔になったとやら」 「さては、院方に、裏切られたぞよ。法皇は、延暦寺
へ潜幸せんこう されたに違いない。叡山には、義仲がいる」 などという沙汰が、紛々と、怒声どせい
まじりに、駈けながら、語られていた。 また、同じように、走り合う武者輩ばら
のあいだでは、 「なにがしの姿は見えぬ。たれたれも、御供の列に加わってはおらぬようだぞ」 と、しきりに、疑心をもって、味方の顔や人数を、見まわす風も起こっていた。 「この期ご
になって、二心をいだき、都の居残りたがっておるような者に、何の未練ぞ。来ぬ者を、振り向くことはない。都とともに捨てて行け」 大声で叫ぶ者があるかと思うと、 「いやいや、名もない輩やから
は、それでよい。・・・・だが、維盛卿これもりきょう
は」 「まだ、西八条を出られたとは知らぬが」 「それみろ。経正殿、忠度殿ただのりどの
など、かぞえれば、供奉の列に見えぬ御一門も、幾人かある」 「やあ、めったなことを、口走るな。西八条からは、お立ちでなくも、すでに、六波羅大路から、先へ行っておられるやもわからぬ」 「さなり、さなり、疑うたら、限きり
はない」 それで、潮うしお
の中の不平は、しばらくやんだが、また、 「摂政せっしょう
の君の御車みくるま は行ったか」 と、目に角かど
たてていう者があった。 摂政藤原基通ふじわらもとみち
のことであろう。幼帝に侍立する輔佐ほさ
第一のお人である。もれては、いうまでもなく、重大だし、平家の一勢力を削そ
ぐことにちがいない。 「やあ、摂政殿は、たしかに、先へ参られておる。もしやと疑われたが、越中次郎兵衛えっちゅうのじろうびょうえ盛嗣もりつぐ
どのが、摂政車に付き添うて、ひどく急いで先へ行った。きっと、鳥羽口あたりにて、主上の御輿みこし
に追いつき参らせんものと、急いだものであろうよ」 事実、鳥羽口から淀へかけての辺りは、六波羅、西八条の療法から来る軍兵と車馬の流れが合がつ
して、行きつかえている有様だった。淀の岸には、何百艘もの川船が用意されてあったが、そこの水際みずぎわ
まで、押し合い、へし合いの混雑なのである。 「足弱な女房や姫たちをこそ、先へ船へ乗せ与えよ。武者どもは、守りだけが、乗ればよい」 「この多勢。あらましは、陸路を福原まで歩くのだ、武者船は、先へ出てはならぬ。──
主上の御輿みこし を船上に乗せ参らせぬうちは、武者船は、ひかえていよ」 水の音、芦あし
の叫び、あちこちの喚わめ きあい、ここはまるで、戦場だった。いるはずの者が見えず、いないはずの人がもう船の内にいたりしている。喧々けんけん
ごうごう、気ばかりは急いでも、収拾がつかない。 |