〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-Z 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (九) ──
一 門 都 落 ち の 巻

2013/10/23 (水) しゆ じよう みやこ ち (三)

すると、そのころになって、たれからともなく、
「法皇は、平家の内にはおわさぬというぞ」
「夜のうちに、いずこへか、御出奔になったとやら」
「さては、院方に、裏切られたぞよ。法皇は、延暦寺えんりゃくじ潜幸せんこう されたに違いない。叡山には、義仲がいる」
などという沙汰が、紛々と、怒声どせい まじりに、駈けながら、語られていた。
また、同じように、走り合う武者ばら のあいだでは、
「なにがしの姿は見えぬ。たれたれも、御供の列に加わってはおらぬようだぞ」
と、しきりに、疑心をもって、味方の顔や人数を、見まわす風も起こっていた。
「この になって、二心をいだき、都の居残りたがっておるような者に、何の未練ぞ。来ぬ者を、振り向くことはない。都とともに捨てて行け」
大声で叫ぶ者があるかと思うと、
「いやいや、名もないやから は、それでよい。・・・・だが、維盛卿これもりきょう は」
「まだ、西八条を出られたとは知らぬが」
「それみろ。経正殿、忠度殿ただのりどの など、かぞえれば、供奉の列に見えぬ御一門も、幾人かある」
「やあ、めったなことを、口走るな。西八条からは、お立ちでなくも、すでに、六波羅大路から、先へ行っておられるやもわからぬ」
「さなり、さなり、疑うたら、きり はない」
それで、うしお の中の不平は、しばらくやんだが、また、
摂政せっしょう の君の御車みくるま は行ったか」
と、目にかど たてていう者があった。
摂政藤原基通ふじわらもとみち のことであろう。幼帝に侍立する輔佐ほさ 第一のお人である。もれては、いうまでもなく、重大だし、平家の一勢力を ぐことにちがいない。
「やあ、摂政殿は、たしかに、先へ参られておる。もしやと疑われたが、越中次郎兵衛えっちゅうのじろうびょうえ盛嗣もりつぐ どのが、摂政車に付き添うて、ひどく急いで先へ行った。きっと、鳥羽口あたりにて、主上の御輿みこし に追いつき参らせんものと、急いだものであろうよ」
事実、鳥羽口から淀へかけての辺りは、六波羅、西八条の療法から来る軍兵と車馬の流れががつ して、行きつかえている有様だった。淀の岸には、何百艘もの川船が用意されてあったが、そこの水際みずぎわ まで、押し合い、へし合いの混雑なのである。
「足弱な女房や姫たちをこそ、先へ船へ乗せ与えよ。武者どもは、守りだけが、乗ればよい」
「この多勢。あらましは、陸路を福原まで歩くのだ、武者船は、先へ出てはならぬ。── 主上の御輿みこし を船上に乗せ参らせぬうちは、武者船は、ひかえていよ」
水の音、あし の叫び、あちこちのわめ きあい、ここはまるで、戦場だった。いるはずの者が見えず、いないはずの人がもう船の内にいたりしている。喧々けんけん ごうごう、気ばかりは急いでも、収拾がつかない。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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