〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-Z 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (九) ──
一 門 都 落 ち の 巻

2013/10/20 (日) お ん はは けん れい もん いん (四)

「さきに、事にわかと申し上げたが、ただ今から、即刻行幸みゆき のおしたくを願わねば」
「えっ、今からですって」
「時おくれては、一大事に及びます。宗盛は、この足でまたすぐさま、院の御所へ参上し、法皇へも、同様なおすすめをして、ただちに軍勢をとりまとめ、あかつき ともならぬまに、都を離れるつもりです。いや、わしばかりでなく、一門、ことごとく、てはずを布令ふれ あい、いずこの家々も、はや門出かどだ ちの用意にあわてておりましょう」
「ああ、それでは、何をしよう暇もない」
女院のお顔は濡れ紙のようである。それを、御袂につつもうにも、泣き伏しているひまさえないのであった。
そつつぼね をよんでください」
宗盛は求めて、べつの室で、帥ノ局に会い、火急、主上には行幸じたくあるように。また、極めて大切な物以外は、物をお持ちにならぬこと。そして一切いっさい の警固や途上のことは、門外にいる侍大将たちに委せ、即刻、ここをお出ましあるべきこと ── などという注意を、こまごま言い含めた。
帥ノ局は、平大納言時忠の妻だ。乳人めのと の名をもって仕えているが、じつは、国母の御相談相手としているのである。世間も見ているし、何よりは、気丈な女性であった。
「よう分かりました。すぐ鳳輦ほうれん をととのえまするが、主上には、よう御寝ぎょし 遊ばしていらっしゃいます。お眠さに、おんむずがりもありましょうし、女院のお身支度とて、ただちのように、たやすくは参りませぬ。・・・・仰せの御時刻までには、ちと、ご無理かと思いますが」
「いやいや、時刻は、守っていただきたい。夜も明けなば、木曾の大軍が、都の内へ、なだれ入って来るやも知れぬ。・・・・となっては、地獄の沙汰。女院にも、供奉ぐぶ の女房たちも、身化粧などは、落ち行く車の中にて、なされるがよい。あれも欲し、これも惜しなど、くれぐれ、物は持ちかか えぬように。── ただ、命こそ、持つは命一つと、ようおん許から皆へ申し含め、一刻も早く、急いで欲しい」
言い残して、内府宗盛は、すぐ帰った。疲労しきって、よけい重たげに見える体を、前屈まえかが みに、のっし、のっし、と歩ませて、中門廊を出、外に待たせておいた馬に乗った。
著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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