〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-Z 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (九) ──
一 門 都 落 ち の 巻

2013/10/20 (日) お ん はは けん れい もん いん (三)

けてゆく。── 眠ろうとする。なおさら えてしまう。
遠い海鳴りのような世音せおん が絶えず聞こえる気がする。この深殿に、何も聞こえて来るはずはない、しかし彼女には、それが聞こえる。
昼間、摂政せっしょう 基通もとみち が、いろいろ、そらおそ ろしいことを告げて帰った。朝廷も、平氏一門も、また都のすがたまでもが、あすも知れない話であった。明日をおび えれば、果てしがない。ともかく眠ることだと思う。が、ウトウトとしては、すぐ醒めた。
「・・・・たれであろう?」
細殿のかよ いを、人の歩いて来る気配がした。すぐまた元の静けさになったと思うと、やがてすみ の柱で鈴が鳴った。
彼女は、みかどがお目を醒まさぬように、こまやかな気をくばりながら、雪の中から脱け出るように、白絹の夜具よのもの をそっと出た。そして、唐衣からぎぬ をかさね、ちょう を排して、御座ぎょざ のわきの間へすわると、そこに、手をつかえていた宿直とのい阿波あわつぼね が、
「せっかく、よくおやすみの最中もなか でございましたろうに」
と、いたいたしげに、女院のお姿を仰いで言う。
内府ないふ 様おみずから、お渡りあそばして、あちらにお控えなされておいでですが」
「え、宗盛どのが」
ただ事ではあるまい。そのことだけで何やら胸は立ち騒いだ。彼女は、すぐ帳にかくれて、よそお いをあらため、
「すぐ、お目にかかりましょう。そなたは、そつつぼね と二人して、その間、みかどのおん枕べを、お守り申し上げてください」
「お心おきのう」
「たのうだぞよ」
建礼門院は、やがて、兄の宗盛が待っている一つの室に姿を見せた。
「この深夜に、何事のおわたりでございまするか」
「・・・・おお、女院」
宗盛は、おもて を上げた。片ひざに扇をついて、うつ向きこんでいたのである。
日ごろ、口ぐせに 「 えて困る、肥えすぎて、弱りおる」 と言っていたその体つきも、丸こい頬も、めっきり、肉を ぎとられ、着馴れぬ大鎧おおよろい の重さにもひし がれている態だったが、
「驚かれなよ、女院。驚かぬようにの」
と、何度も念を押してから口をひらいた。
「おん許にも、およそは察しおられたであろうが、いよいよ、住み馴れた都を捨て、一門西国へ落ちゆかんと、こよいの評議で決まった。── 女院や二位殿などは、都に残しておくとて、よも、敵たりと、むご い目にはあわせまい、という者もあったが、万が一にも、もし、まのあたりに女院や二位殿が、憂き目の恥を見せられたら、あとでいかに口惜しがるとも及ぶまい。・・・・それゆえ、事にわかながら、おん許をも、二位殿をも、お連れ申す事になった」
「そうですか、さまざまに、人は言いますが、なお、よもやとは思うておりましたのに・・・・」
女院は、しゅくと、まゆ を泣きひそめ、
「── わたくしたちの身は、いかにあろうと、其許そこもと のおはからいに頼むしかありませぬ、ただ、みかどには、まだおいとけないことゆえ、それのみが」
「主上、法皇も、あわせて平家が内に守り奉り、いずこの地など、仮宮かりみやしつら えまいらせて、一門、時節を待とうの所存。まあ、余りにお案じすぎぬように」

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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