〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-Z 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (九) ──
一 門 都 落 ち の 巻

2013/10/20 (日) お ん はは けん れい もん いん (二)

「・・・・おお、何も御存知なげに」
眠られぬ夜が、このごろ常だった。
しかし、みかどの寝顔には、世の何物の影もない。すやすやと神のままな、おん睫毛まつげ である。
そしてふと、夢にでもくるまれ給うのか、おくち の端に、 くぼを浮かべられたりする。
御子みこ は、お父君似よ。さきのみかどの似絵にえ のような」
われもなく、彼女は、その無心な くぼへわが頬をすりよせる。抱きかかえる。
こうした几帳きちょう の中の夜半だけが、この母と子とに許されているただ一つの楽園だった。
もっとも、彼女のみは、従来のきさき や大宮などの在り方にかかわらず、前例のやかましい宮中のなら いを破って、いかなるばあいの出入しゅつにゅう にも、幼いみかどを、わがひざから離したことがない。
また、夜々の御寝ぎょし にも、御添臥そいぶ しして、母のかいな を、みかどの御枕の下へ、しのばせていた。
世の一般な母親たちなら、それこそ、あたりまえのことにすぎないのである。しかし、宮廷の規矩きく は、そうした母の習性や本能をゆるしていない。
皇子は、生まれ給うや、乳人めのとはぐく まれ、春宮とうぐう の別殿に住み、侍従、大夫にかしず かれ、母のきさき に会い給うも、父の陛下にえつ するも、諸官侍立じりつ の前で行われる。そして、それは肉親のおむつ みというよりも、つねに一つの儀式であった。
「思えば、世の乱れゆえに、かえって、一つの倖せを給うてはいる。こうして、母らしゅう御子みこ添臥そいぶ しできることだけが」
建礼門院は、眠れぬままに、そんな考え方もめぐらしてみる。夜の奥所おくが几帳きちょう をふかく垂れ めている間だけは、世間の母親とも変わるところはないのであった。そして、これだけは、はからずも、不運が与えてくれたものである。儀式ではない。人間らしい母と子の自然なままの寝姿だった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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