が、その叡山と義仲との同盟などは、まだ、夢想もしていなかった。 なぜならば、つい、ひと月ほど前、建礼門院の病で山門へ加持を仰いだときも、平家とのあいだには、変わりのない往来があったことだし、また宗盛の請いによる北陸の戦捷祈願も、世上泰平の立願にも、山門側は、全山をあげて、祈祷きとう
を行ったほどである。 平和を祈る者が、平和の破壊者に、加担するはずはない。木曾につかず、平家にも寄らず、中立を守ろうとはするだろう。そう判断したものらしい。 ところが、その木曾勢は、駸々しんしん
と、都の三方へ近づきつつあるし、山門の様子も、へんである。叡山の上に、源氏の旗が白く見えると言い、義仲が東塔に陣したといい、町中も殿上も、およそ、蜂はち
の巣の騒ぎである。── いまは、好むと好まぬにかかわらず、山門も義仲の麾下きか
に収められてしまったこともあきらかである。 おりもおり、院の近臣、平親宗が、法皇後白河の御密書をたずさえて、夜陰、そっと宗盛の私邸をおとずれた。 法皇の御書面には、 (──
もし都の守りあやうき際は、いかに危急を処理する考えか。平家の進退はどうする所存か) を、お糺ただ
しになったものである。 言葉のあやで 「もし都が」 とあるが、法皇の御観察では、危局はすでに眼前にあるので 「もし?」 ではない。 「もはや」 である。平家に見限みき
りをつけていらっしゃるのだ。 事態の収拾はもう問題のほかで、先の場合を考慮してのお糺ただ
しであることはいうまでもない。 宗盛がそれに対して、どうお答えしたかというに、 「その節は、われら一族、ただちに参上して、法皇、主上を奉じ参らせ、西国へおん供申しあぐる所存でおざる。──
たとえ都は一時捨つるとも、西海九州には、平家重代の領家の臣もあまた罷まか
りおれば、力を養うて、ふたたび都を奪い、乱賊を討ち払い、御車みくるま
を回かえ す日は決して遠い先ではありません。ゆめ、お案じ遊ばされぬように」 と、使いの親宗へ言っている。 親宗も、諒承りょうしょう
して、院の御所へ帰った。そして、そのままを、深夜、法皇にお伝えしたであろうことも疑いない。 ただ、後白河が、それをお聞き取りあって、どんな御先見をもたれたか、御自身としての処理を、いかになさろうとしていらっしゃるかは、たれにも、御容子さえ、見せなかったことであろう。風が起これば淵ふち
に潜み、雲が生しょう じれば雲に棲す
み龍りゅう のごとき隠現自在なお立場にあり、わけて政略に富む御性格として、果たして、宗盛が抱いているような単純な方針に、易々としてお乗りになるか、否かは大きな疑問である。もし宗盛に亡父清盛ほどな器量があったなら、西国落ちの構想を胸に御同意は否かをこそ先に、まずもって、彼から法皇に打診していたろうにと、後には人も評したことであった。
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