〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-Z 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (九) ──
く り か ら の 巻

2013/10/19 (土) か れ の くに づく り (四)

そして、彼はまた、食える草木を、諸書にわたって調べてみた。木の実、木の皮、雑草、およそ生きるためのかて なら、牛馬、野鼠、鳥虫、何でも食えることを知って、意を強うした。 「試しに」 と、蟋蟀こおろぎ を食って、ヘドを吐いたりした。
妻のよもぎ は、
「オオ、いやだ」
身ぶるいして、
「あなた、気が狂ったのじゃないでしょうね」
と、半ば眼を涙ぐませた。
「ああ、正気だよ」
「もとから変わり者で、物好きな、あなたでしたけれど、このごろはまた、ほんとに、正気かしらと思ったりしてしまう」
「天候も変だし、世の中も変だしするから」
「ですから、良人のあなたぐらい、しっかしていてくださらなければ」
「女女房は、心細いというのかい」
「だって、草を食べたり、虫を食べたり、それでこの間も、お医者のくせに、おなかを下痢くだ したりしたじゃありませんか」
「いまに、おまえだって、ねずみ でも、木の皮でも、食べ始めるにちがいない。そして、吐きもしないし、おなかも痛むことはなくなるよ」
「ま、あなたは、どうしてそんな、いやな取り越し苦労ばかりするんでしょう。いくら飢饉ききん だって、もう、今年をしのげば」
「その今年が、危ないな。飢饉だけなら、まあいいがね。人間が人間を食いあうようなことにならねばよいが」
「そう、そう」
蓬は、ぞっと、何かを思い出したように、
「ほんとに、あるんですってね」
「なにが」
「人間の肉を食べた人間が。そんなことを、近所の者が言っていましたよ。なんでも、河原で見た者があるんですって」
嬰子あかご をか」
「そうですって」
「あわれだなあ・・・・元来はみな善性の人間なのに」
「それにまた、やたらに、捨て子が多いんですとさ。このごろは」
ひろ もありはしない。いったい捨てられて子は、どうなるんだろ」
「どうもなりはしません、 にに、死んでしまうほかは」
・・・・蓬。どうだろう。わしたち夫婦で、そうした捨て子を、拾って育てようじゃないか」
「え?」
「いやか」
「拾いきれる数じゃないんですよ。だからあなたは、すこしどうかしたんじゃないかしらと、ときどきわたしは心配になるんです。だいいち、そんなたくさんな捨て子を、どいうやって育てるつもりですか」
「どうなとして」
「御自分さえ、蟋蟀こおろぎ を食べてみたりしている矢先に」
「・・・・ああ、どうにか、ならぬものかなあ。いかに凶年つづきでも、都の内には、なお、あまたな御館おやかた の門もあり、社寺の大屋根もあるものを」
「いくら、身をもがいて、そんなことを仰っしゃったって」
「じゃあ、おまえがもし、飢えて、死にかかったら」
「いくら飢えたって、子は捨てません」
「そして」
「一緒に死にます。抱き合ったまま、親子一緒に」
「それだけのことなら、犬猫いぬねこ の親子でもするよ。それだけじゃあ、たす いにはなりはしない。人間の世の中らしいすがた ではあるまい」
こういう相談になると、彼と妻の間では、らち があかない。彼女の理解の外だった。母としても妻としても、家の垣とおなじに、ある限界がある。
蓬にすれば、良人はのんきな人だと思う。きのうの辻は、ひと事どころの騒ぎではない。
なんでも、うわさには、木曾殿の軍勢が、もう近江の国へ入って来たとやらで、京中かなえ・・・ くように、ごった返しているではないか。
そして、人の言うには、
「木曾は、山家やまが の、猪武者いのししむしゃ ばかり、なさ容赦ようしゃ を知る者でなはない。北陸でも近江でも、女という女はまいな手籠にされたぞよ。平家に出入りしたやから は、市人いちびと でも殺されよう。木曾鬼を、都に入れるな。木曾鬼を都に見たらこの世の終わりだぞ」
嵐の先駆さきがけ けのように、伝わってくる。
また、それとはおべこべな風説もあって、
「逆悪平家がつぶれ、木曾殿が、都入りあれば、世は、たちまち楽土になろう」
と、いう者もある。
どっちが真か、どう違うのか、庶民には分からない。
分からないままに、恐怖はつのって、まったく、この世の終わりかと思わせるような世相を呼び起こした。食もなく、安き眠りもない暗澹あんたん たる都に、一日もいたたまれない気にも駆られ、争って、家財道具を山野へ運び始めたのである。
下層だけではない、上もそうだった。
この洛中上下のうろたえは、平家の北陸大敗がちょ だったのはいうまでもない。でもなお、半信半疑ではあった。ところが、前後して都へ逃げ帰って来た平家勢の姿を眼に見るにおよび、収拾もつかない状態に陥ったのである。── それが六月末から七月初めのことであり、やがてまた現実に、木曾勢が叡山の上に現れ、義仲が、その本営を東塔総寺院へ置くにいたって、洛内の様相は、破滅寸前のけわしさを表面化していたのである。
義仲が立った叡山東塔の辺からかなたを俯瞰ふかん すれば、一片の雲もない夏空の下、飢餓と恐怖にくるまれた下界の一区域には、右往左往の蟻地獄ありじごく そのままな騒ぎが、手に取る如く彼の想像にのぼるのだった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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