柳ノ水界隈
の貧民が、ともあれ、この麦秋には麦を収と
りいれ、青い物を作り、芋の葉もいちめん大きく茂らせている。 それは、早くにもう洛中の、他の貧民たちにも眼をみはらせ、諸所方々で、おなじ畑作りが流行はや
った。 市いち は、西の京、東の京も、物資の杜絶とぜつ
と物盗りの横行で、どこも棚たな
(店) を閉めてしまった。で、町人まちびと
たちの中でも、南瓜かぼちゃ 作りや芋作りをしていない家はない。公卿館やかた
の庭でさえ、花?かき を抜き捨て、泉石を毀こぼ
ち、畑にしているというほどである。 だが、公卿雑色ぞうしき
はとにかく、貧民たちは、もともと、尺地も持っているわけではない。畑作りも、もちろん、ひとの土地だった。それも焼け野原などは看過みすご
されたが、廃宮の庭園だの、寺社の領などまで犯されだしたので、検非違使けびいし
がやかましく言い出した。みすみす出来た作物を、庁の下役人げやくにん
に没収され、首をくくった一家さえある。 麻鳥にもとがめが来た。 「貧民をけしかけて、他家の土地に、畑作りをやらせた発頭人は、そちだという世間の聞こえだが」
と、いう罪である。 そのため、彼は、投獄されかかった。 ところが、禍わざわ
いが幸いになって、それが大理卿だいりきょう
の平大納言時忠の耳にはいった。 「麻鳥と申すは、かつて、入道禅門の御臨終にさいし、おん脈をとった町医ではないか」 と、思い出されたのである。その結果、時忠は直々じきじき
に、麻鳥のこころざしを聞き、多いに感じて、 「罪どころか、よいところへ気がついた。人、多くは食えぬが故に悪へも走り凶暴にもなる。以後、洛中のむなしき雑草の土地は、窮民どもの耕すにまかせ、耕す物を奪う者は、重罪に処すであろう」 と、善政を示してくれた。 麻鳥は、雀躍こおど
りした。それからは、公おおやけ
にできた。医業も二の次にして、扶け合いの国造くにづく
りに打ち込んでいた。 |