壮年のころ、長井ノ庄を領して、武蔵国に定住していた時代もあるが、彼の出生地は、越前南条郡の能根村であり、遠い祖は、在原氏
だった。地方の文官だったのである。 幾代か前の先祖から、源家と結ばれ、源氏の粟ぞく
を食べて来たが、もともと、文雅の家の血をひいてきた彼なので、東国の粗野には堪えられぬ思いがあった。後、平家の右大将家に仕えて、老後を生きて来たのも、人は何とも言え、彼には希ねが
う余生であった。凡々と、都の一隅いちぐう
に、老い朽ちることが望みだった。 けれど、こう生きたいと希ねが
うままに、生かさないのが世の中である。さきの富士川の戦いにあたって、恩義のある主の宗盛から、維盛について、軍監として征ゆ
くようにと、ねんごろに依嘱いしょく
をこうむった時、彼はすでに、老骨をもって恩に報むく
ゆる日と覚悟したのであった。 ── だが。 彼には、自己の言を帷幕いばく
に用いさせるほどな地位ではない。 身分に過ぎたる宗盛の依嘱であった。 かえって、自分が軍監の大任をもって征い
ったために、富士川の陣は、よけい内輪がまずかったと考えられないこともない。 実盛は、すべてを、自分の落度としていた。あれ以後、ひとり心に詫わ
びて、 (老人というものの辛つら
さなのだ。責めを年下の者に負わすべきではない。しかも、お主あるじ
のお頼みを負うて陣に加わって征った以上、なべてのこと、一切の責めは、この老骨にある) と、していた。 (それが、あの態てい
じゃ。富士川の大敗じゃった。未然に凶をおいさめしても、お若い公達きんだち
大将に聞かれはせぬ。・・・・ぜひのう、陣地を捨てて、われ一人、先へ都へ立ち帰って来た。そうもしたら、お悟りあるやと思うたことだが、人はわれを嘲わろ
うた。いや嘲うたのも無理はない。富士川の汚名は、平家の名とともに消えもすまい。みな、実盛が不つつかなせいよ。ふかく、おわび申さにゃならぬ) 死所を富士川に得なかった彼は、こんどの、北陸発向こそ、 (死ぬときぞ) と、ひそかに、誓って出たのである。 それとなく、宗盛にも、今生こんじょう
のいとまを告げて立った。そのさい、彼は、 (北陸は、それがしの、生まれ故郷でおざる。ふるさとへは、錦にしき
をかざれと、人も申しますれば、身に過ぎたるおねだりではありまするが、赤地錦あかじにしき
の直垂ひたたれ 、もえぎおどしの鎧よろい
、くわ形のかぶと、鷹たか の切斑きりふ
の矢など、大将の装よそお いを、おゆるし給わりませ。常の日、あだには用いませぬゆえ) と、願い出た。 宗盛は、ゆるしたし、それらの品々を、出陣の餞別はなむけ
にと、彼に与えたのであった。 ── 彼が、いま、身にまとっている綺羅きら
な物具もののぐ は、すべてそのおりの品に違いない。 「武門の生涯は身に染まぬ性さが
と悔いつつも、ついつい、腰のまがるまで、世を過ごしてしもうたが、この賜物を着、故郷の土に死ぬるは、本意ではないと人にはいえまい。おおむね、本意なき死が人の世のならいであるのに」 こうつぶやいて、眼を、あたりへ配くば
り直した時である。 驟雨しゅうう
のように遠くの地が鳴った。 「── 敵」 と、実盛は、無意識に突っ立ち、そしてまた、松の根に腰をすえた。追撃隊の一陣が、つむじを作な
して、近づいて来るらしかった。 |