〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-Z 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (九) ──
く り か ら の 巻

2013/10/18 (金) さね もり さい (二)

壮年のころ、長井ノ庄を領して、武蔵国に定住していた時代もあるが、彼の出生地は、越前南条郡の能根村であり、遠い祖は、在原氏ありわらうじ だった。地方の文官だったのである。
幾代か前の先祖から、源家と結ばれ、源氏のぞく を食べて来たが、もともと、文雅の家の血をひいてきた彼なので、東国の粗野には堪えられぬ思いがあった。後、平家の右大将家に仕えて、老後を生きて来たのも、人は何とも言え、彼にはねが う余生であった。凡々と、都の一隅いちぐう に、老い朽ちることが望みだった。
けれど、こう生きたいとねが うままに、生かさないのが世の中である。さきの富士川の戦いにあたって、恩義のある主の宗盛から、維盛について、軍監として くようにと、ねんごろに依嘱いしょく をこうむった時、彼はすでに、老骨をもって恩にむく ゆる日と覚悟したのであった。
── だが。
彼には、自己の言を帷幕いばく に用いさせるほどな地位ではない。
身分に過ぎたる宗盛の依嘱であった。
かえって、自分が軍監の大任をもって ったために、富士川の陣は、よけい内輪がまずかったと考えられないこともない。
実盛は、すべてを、自分の落度としていた。あれ以後、ひとり心に びて、
(老人というもののつら さなのだ。責めを年下の者に負わすべきではない。しかも、おあるじ のお頼みを負うて陣に加わって征った以上、なべてのこと、一切の責めは、この老骨にある)
と、していた。
(それが、あのてい じゃ。富士川の大敗じゃった。未然に凶をおいさめしても、お若い公達きんだち 大将に聞かれはせぬ。・・・・ぜひのう、陣地を捨てて、われ一人、先へ都へ立ち帰って来た。そうもしたら、お悟りあるやと思うたことだが、人はわれをわろ うた。いや嘲うたのも無理はない。富士川の汚名は、平家の名とともに消えもすまい。みな、実盛が不つつかなせいよ。ふかく、おわび申さにゃならぬ)
死所を富士川に得なかった彼は、こんどの、北陸発向こそ、
(死ぬときぞ)
と、ひそかに、誓って出たのである。
それとなく、宗盛にも、今生こんじょう のいとまを告げて立った。そのさい、彼は、
(北陸は、それがしの、生まれ故郷でおざる。ふるさとへは、にしき をかざれと、人も申しますれば、身に過ぎたるおねだりではありまするが、赤地錦あかじにしき直垂ひたたれ 、もえぎおどしのよろい 、くわ形のかぶと、たか切斑きりふ の矢など、大将のよそお いを、おゆるし給わりませ。常の日、あだには用いませぬゆえ)
と、願い出た。
宗盛は、ゆるしたし、それらの品々を、出陣の餞別はなむけ にと、彼に与えたのであった。
── 彼が、いま、身にまとっている綺羅きら物具もののぐ は、すべてそのおりの品に違いない。
「武門の生涯は身に染まぬさが と悔いつつも、ついつい、腰のまがるまで、世を過ごしてしもうたが、この賜物を着、故郷の土に死ぬるは、本意ではないと人にはいえまい。おおむね、本意なき死が人の世のならいであるのに」
こうつぶやいて、眼を、あたりへくば り直した時である。
驟雨しゅうう のように遠くの地が鳴った。
「── 敵」
と、実盛は、無意識に突っ立ち、そしてまた、松の根に腰をすえた。追撃隊の一陣が、つむじを して、近づいて来るらしかった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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