とどろに、海鳴りが高い。 果てなく見える白砂と白浪は、裏日本の夜の海だった。 一方は、そこに限界され、陸地も今江潟
、木場潟、柴山潟などが寄り合っていて、平野の半ばは、湿地である。 平家勢の敗走路は、自然、せばめられていた。四分五裂となって、浜を逃げ、野を逃げ、山蔭へさして走る大群もあった。蜘蛛くも
の子の散るという言葉も当てはまらないほど、それは、おびただしい数の人馬なのである。 そして、維盛、通盛たちの主力部隊は、柴山潟と佐美ヶ浜のあいだを、ひた走りに、逃げくずれて行った。 砂丘が多い。松が多い。 根上がり松に足をとられて、人馬はやたらに転びあった。 平有国、範高のりたか
の二人は、 「あれよ、うしろの敵は、はや迫った。われらにて、殿軍しんがり
なつかまつらん。一門の方々には、ただただつつがなく都へ帰り給うて、いつか今日の恥をそそぎ給え」 と、取って返し、木曾の追撃を、しばし必死にくいとめた。 だが、それも怒涛どとう
へ向かうようなものでしかない。みるまに、死力の殿軍しんがり
も、喚おめ きにのまれ、敵の追撃力は、なお、拍車を加えてくる。
真下重氏、浮巣三郎なども、引っ返して敵に当ったまま、行方も知れず、高橋判官長綱も、踏みとどまって、討死を遂げた。伊東入道裕親の子、裕清も、この時血戦の中に果てたのであった。 総じて、富士川以来、臆病風おくびょうかぜ
は平家の旗には付きもののように世上にも言われたが、決して、そうした人びとばかりではない。── 上総介忠清、その子太郎忠綱、洲浜すはまの
判官高能、尾張守貞安、摂津判官盛澄、越中太郎盛綱、射水いみず
藤太俊貞など、きびすを回かえ
しては、戦って討死してゆき、味方の主力を、危地から逃れさせるために、途上、眼を覆うばかりな屍を続々横たえていたのである。 なかでも、 「俣野五郎またののごろう
景久かげひさ 」 と、名乗った武者は、木曾の十三騎を斬って、自分も全身に創痍そうい
をうけ、砂丘の松に寄りかかったまま自刃した。 あえない犠牲のこうした支えで、維盛以下の主力は、からくも、虎口ここう
を脱し、一部は大聖寺方面へ、一群は片山津から山代やましろ
、山中方面の山岳へ分かれ去った。だが、逃げ遅れたか、なお、それに続いて行く、ちりぢりな兵の影もある中で、寂然と、ただ一人、砂丘の松の根に腰かけていた平家の一武将があった。 それは、かの斎藤別当実盛である。 先へ落ちて行った同陣の友に、わが乗馬も与えてしまい、多年、養って来た家の子郎党も残さず、彼は、まったくの身ひとつであった。 味方にもわざと離れ、敵の一団、二団の影さえ遣や
り過ごして、何思うか、実盛は、ほとんど息づきながら、この世の星と松風に、じっと老いの眼を上げている。 「・・・・・・・」 おそらくは、生まれ故郷の波音に耳を洗われ、七十余年の長い過去を、ふと、振り向いているのではあるまいか。
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