〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-Z 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (九) ──
く り か ら の 巻

2013/10/16 (水) わか や ぎ の つぼ (三)

けれど、いっこう、それについての返辞はしないので、俣野五郎景久は、ぐっと、彼の耳のそばへ、体を寄せて、なお説いた。
「御老体、実盛どの」
「ウ?」
「むかし、あなたは、武蔵国長井ノ庄を領しておられた。・・・・そのころ、くわしく申せば久寿二年、武蔵大蔵おおくら で、合戦があった。鎌倉の義朝殿が、義平殿をやって、叔父の先生せんじょう 義賢よそかた 殿どの を不意討ちさせたのだ。── そして、義賢殿よしたかどののこ した孤児みなしご こそ、今日の、木曾冠者義仲殿ではあるまいか」
「うむ、うむ・・・・」
「当時、木曾冠者は、たしか、なだ二歳の乳呑ちの
「・・・・・・」
「鎌倉の追捕ついぶ のきびしさにつけ、なんとか、助けとらせたいものよと、その母と子を、かく もうたのが、畠山重能どのであったと聞く。・・・・だが、母子の身もまた危うくなったので、重能殿は、人に託して、その幼児おさなご の養育を、木曾の中原兼遠殿へ頼んだ。・・・・兼遠殿を、男と見込んで、頼んだっわけじゃ」
「そうかのう」
「はて、御辺は、人ごとのように仰せられるが、そのさい、後の木曾冠者、まだ二つのみどり児を手に預って、はるばる木曾まで参った者は、畠山殿自身ではなかったはずだ。・・・・武蔵国長井ノ庄の住人斎藤実盛どのではなかったか」
「はははは、古いことよの」
「いかに、以前の古事ふるごと でも、お忘れのはずはない。いや、老台がお忘れあろうとも、義仲どのが、これを忘れてよいものぞ。── なぜあなたは、木曾殿の許へ、われは長井の斎藤実盛なれ、と頼って行かれないのか」
「・・・・・・」
「平家への義理立てなれば、さきにも申した通り無用でおざる。何条、きたな しなどと人も笑いましょうや。・・・・むしろ、あなたが木曾殿に引き取られて、余生の安穏をお見送りできるならば、われらは、うれしゅうおざる。真実、よろこびと申すもの」
「・・・・ああ、実盛も老いたそうな」
彼は、ぼろぼろと、涙をたれて言った。
「昔、ただ良心に命じられてしたことを、今日の売り物にするほど、実盛はまだ落ちぶれてはおらぬ者と自惚うぬぼ れていたが、いまのおのおののおすすめにあずかって、初めて、身の耄碌もうろく を知り申した。・・・・さはいえ、すでに都を立つ前に、仕えまつる右府殿 (宗盛) へも、それとなくお暇乞いを告げ、赤地錦あかじにしき直垂ひたたれ などを賜って、今生こんじょう 、思いのこすこともなく身仕舞い申したうえ、
出で立って参ったれば、さような配慮は、さらさらお心をあずら わし給わぬように」
そう、物静かにに言ってから、また、
「いや、洟水はなみず などをお見せ申して、われながら、笑止なことでござる。何を申すも、人間、老いては、寝るか、死を待つしかおざらぬものよ。可惜あたら 、今宵の酒盛を、味のういたしたも、老いのせいじゃ、ゆるされい、ゆるされい」
と、ふたたび、触れたくもない容子ようす だった。
しかし、実盛が びるほどなこともない。自然、酒飲みたちは、酒盛を楽しまずにはいないものだ。やがて夜も更けて、おのおのは別れ別れに帰って行った。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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