その夜、実盛は、ひとりわが幕舎のうちの坐って、何か思いにふけっていた。鏡を立て、燭
を掲げ、自分の顔を、映して見ていた。 ── 鏡の中には、七十余年の、自分の生きて来た形見が、惨さん
として、映っている。 この顔、この相すがた
。 蓬々ほうほう たる白髪は、生きるが為に、喘あえ
いで来た生涯の苦労を物語っている。 黒髪のこう白くなるほどまで、生かされて来たこの一個の体は、いったい、何を世にし残して来たろうか。帰き
するところ、みずから慰めうるようなものは何もない。 あわれむべき老いの形骸けいがい
、それだけが、ここにあるだけだ。そして、形骸がいま形骸を見つめ、及ばない生涯の慙愧ざんき
をしているにすぎない。 けれど、この形骸を持っている以上、世の毀誉褒貶きよほうへん
も耳に入れば気にもかかる。武門であれば、主筋の義理などもなかなか捨て難い。こよいも、友はああ言ってくれたりしたが、先年、富士川に戦わずして、ひとり先へ都へ帰ってしまったことは、その後もいつまで、自分に祟たた
って、煩わしい人沙汰にもされている。それに、この年ではもう物欲も出世欲もないので、功を競う気なども毛頭ない。あるのは死に方だけである。こんどこそは、きれいに、この形骸を自分で始末し、生涯の善不善、一切のしてきたことを、帳消しにしてもらいたいものだとは、都を立つ前からの願いであった。 「・・・・・・・」 実盛は、燭を剪き
って、鏡を覗き込んだ。 五本の指を櫛くし
として、ばさたる白髪を、かきあげる。 人知れず洗っておいた髪は、油気のない麻のようだ。やがて、かたわらの壺をひざのそばへ引き寄せ、彼は、わが白髪を染めはじめた。 鏡の中の顔は、若い日の実盛を取り戻したように、若やいで行った。
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