〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-Z 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (九) ──
く り か ら の 巻

2013/10/17 (木) わか や ぎ の つぼ (四)

その夜、実盛は、ひとりわが幕舎のうちの坐って、何か思いにふけっていた。鏡を立て、しょく を掲げ、自分の顔を、映して見ていた。
── 鏡の中には、七十余年の、自分の生きて来た形見が、さん として、映っている。
この顔、このすがた
蓬々ほうほう たる白髪は、生きるが為に、あえ いで来た生涯の苦労を物語っている。
黒髪のこう白くなるほどまで、生かされて来たこの一個の体は、いったい、何を世にし残して来たろうか。 するところ、みずから慰めうるようなものは何もない。
あわれむべき老いの形骸けいがい 、それだけが、ここにあるだけだ。そして、形骸がいま形骸を見つめ、及ばない生涯の慙愧ざんき をしているにすぎない。
けれど、この形骸を持っている以上、世の毀誉褒貶きよほうへん も耳に入れば気にもかかる。武門であれば、主筋の義理などもなかなか捨て難い。こよいも、友はああ言ってくれたりしたが、先年、富士川に戦わずして、ひとり先へ都へ帰ってしまったことは、その後もいつまで、自分にたた って、煩わしい人沙汰にもされている。それに、この年ではもう物欲も出世欲もないので、功を競う気なども毛頭ない。あるのは死に方だけである。こんどこそは、きれいに、この形骸を自分で始末し、生涯の善不善、一切のしてきたことを、帳消しにしてもらいたいものだとは、都を立つ前からの願いであった。
「・・・・・・・」
実盛は、燭を って、鏡を覗き込んだ。
五本の指をくし として、ばさたる白髪を、かきあげる。
人知れず洗っておいた髪は、油気のない麻のようだ。やがて、かたわらの壺をひざのそばへ引き寄せ、彼は、わが白髪を染めはじめた。
鏡の中の顔は、若い日の実盛を取り戻したように、若やいで行った。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ