そのころ、義仲はなお、ふもとの埴生
の本陣に、じっとしていた。 が、心の波騒は、おおうべくもない。眼光、眉の動きにも、それが見え、木蔭こかげ
の床几しょうぎ から、こずえの木もれ陽び
を仰いでは、 「もう、何刻なんどき
か」 と幾度も、左右の者にたずねた。 夜にはいるを待つ。それが彼の胸三寸であった。寡兵をもって大軍を破るには、それ以外にない。陽の落ちるのが今日ほど待ち遠しい日もないと思う。 「・・・・・・・」 じっと、腕を組む。 胸のいら立ちを意識し、これではと、みずから落ち着こうと努めている風なのだ。 「・・・・そうだ」 彼は、くわっと、眼をみひらいた。──
瞑目めいもく のあいだに、葵と山吹の顔をふと描いたのである。ゆうべの六動寺の宵やみが頭にあった。それから、彼の連想は、陣中の牛騒動へ移って行った。火に驚いた暴れ牛が、彼の頭の中を駆けた。 「そうだ、幼少のころ読んだ唐とう
の軍書に、火牛かぎゅう の計けい
というのがあった。── 春秋の戦国時代、斉国さい
の将軍田単でんたん が、燕えん
の外軍の侵入に対して施したあの奇計・・・・」 ぬっと、義仲は、つかれたように立ち上がって、 「幸広ゆきひろ
、あるか」 と、陣幕とばり
の蔭へどなった。 「は、これに」 「いたか ──」 と、幕のすそを見、またきっと、反対の人だまりをながめて、その中の小諸こもろ
太郎忠兼へ、 「忠兼も、参れ」 ろ誘って、別な幕囲いの内へ隠れた。 そこで義仲から、どんな密命を受けたか、海野、小諸の二将は、まもなく、あわただしげに、部下を連れて、ここを出て行った。 入れ違いである、山上の伝令が駆け下りて来て、 「敵の一陣と、お味方の先頭とは、塔ノ橋をはさんで、はや、矢うなりが交わされておりまする」 と、知らせた。 「始まったか。いざ、行こう」 日没を待ちきれぬもののように、義仲は、うしろの諸将をみて言った。 ──
といっても、なお、前進はひそと行われた。馬上、義仲はあちこちの気色など見ている風であった。ころは五月、初夏のみどりは滴したた
るようだった。行く先々に、沼や池があり、その水は、倶梨伽羅の谷々から来て小矢部川へ落ちて行くらしい。白鷺しらさぎ
の群が、何度も、吹雪のように、水辺の緑をかすめた。 「あれに見ゆるは、なんの御社みやしろ
ぞ。かなたの、朱あけ の鳥居は」 義仲の指さす所へ、人びとも眼をやった。 越中の住人、池田忠康が、すぐ、 「されば、埴生はにゅう
の八幡とは、あの宮にて、ここも八幡の御領ごりょう
に候う」 と、答えた。 「なに、八幡の宮とな」 と、義仲は、喜色をたたえて、うしろに続いて来る祐筆ゆうひつ
の大夫坊覚明を呼びたて、 「一期いちご
の道すがら、八幡宮の玉垣たまがき
に行きあうとは、源氏の吉瑞きちずい
ではあるまいか。戦勝の祈りを籠こ
め、願文がんもん をささげんと思うが、うかに」 「至極、しかるびょう存じまする」 「あれにて、即座に願書をたしなめよ」 「畏かしこま
って候う」 覚明は、先に駈けて、玉垣の外に、駒こま
をつないだ。 社前に腰うちかけ、箙えびら
の下の嚢ふくろ を解いて、小硯こすずり
や畳紙たとう を取り出した。ここで彼が即座にしっためた文章は、後に当時の名文として有名になった。漢文幾十行にわたる、いわゆる
「木曾願書」 である。それが一気呵成いっきかせい
に、書かれ終わると、義仲は、 「── 読め」 と、筆者の覚明に命じた。 義仲以下の将士は、すべて八幡の宝前にぬかずいた。願書の名文は、音吐朗々おんとろうろう
と、声高こわだか に読まれてゆく。 聴くのは、拝殿のみあかしではなく、人である、人の魂である。 そのとき、三羽の山鳩やまばと
が白旗の上を舞いめぐって、羽ばたき高く飛び去った。神の照覧であり、八幡の霊顕であると、義仲初め、将士は歓呼したという。 |