加賀、越中境の低山脈は、そう嶮峻
ではないが、山波の幅は、数里にわたっている。 その連峰をくるめて、砺波山となみやま
とも、倶梨伽羅くりから とも呼ぶのである。 そして、そこの山越えは、間道かんどう
であって、北陸の本道ではない。── 本街道は、海岸線の内灘うちなだ
から志雄山道がそれだ。 源平両軍ともに、その志雄山路へは、支隊を分けて戦い、本軍と本軍との出合いは、間道の倶梨伽羅峠と、予期していた。 で、このときの戦いくさ
を、 “北陸の二手合戦” と、言ったりする。 平家方でも、前夜、野営していた倶梨伽羅の西の ── 津幡つばた
、竹橋の村落を、その朝、出動しだしたが、先頭隊が頂に着いても、なお、四万余の歩騎や幡は、はるかふもとを、蟻あり
のごとく、延々と続いていた。 間道である。それほど、道は狭く嶮けわ
しく、やっと縦隊一列が、深い谷間をのぞきながら、うねりうねり通れるぐらいな幅しかない。 大将軍の平たいらの
維盛これもり は、越中権頭えっちゅうごんのかみ
範高のりたか や平泉寺へいせんじ
の斎明さいみょう を道案内として、 「かしこの峰は? かしこの谷は?」 と、一巡、地形を見て歩いた。 すると、越中寄りの山すそに、おびただしい白旗が臨まれたので、維盛は眼を見張った。 「あれよ、源氏はすでに、麓口ふもとぐち
を抑え、われへ攻めよする態てい
ではないか。あの大軍の布陣は、なんという地名ぞ」 「日宮林ひのみやばやし
かと思いまする」 「道はあるのか」 「南黒坂を経、卯ノ花山、塔ノ橋へも参られます」 「すれや、用意なくば」 維盛は、いささかあわてた。 それを望むまでは、まだ、こうまでの事態とは思っていなかったものらしい。 惜しいことであったと、後には、平家の為に、人びとは言った。この時の微妙な日宮林しょうすい
の心理が、以後の平家の凋落ちょうらく
を、急速に決定づけてしまったのだ。 もし維盛が、もすこし、深い思慮のもとに、源軍の実態や、地勢を見、そして敵の偽装の白旗などに驚かず、敢然と倶梨伽羅を越え、越中平野へ進出していたら、おそらく勝敗は逆になっていただろう。ひいては、全平家の以後の運命も、変わっていたかも知れないのである。 が、いかんせん、維盛も行盛も、いわゆる都の公達きんだち
だった。もとより怯ひる んだのではないが、果断よりも、大事を取ってしまったのだ。 |