〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-Z 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (九) ──
く り か ら の 巻

2013/10/11 (金)    ぎゅう (一)

加賀、越中境の低山脈は、そう嶮峻けんしゅん ではないが、山波の幅は、数里にわたっている。
その連峰をくるめて、砺波山となみやま とも、倶梨伽羅くりから とも呼ぶのである。
そして、そこの山越えは、間道かんどう であって、北陸の本道ではない。── 本街道は、海岸線の内灘うちなだ から志雄山道がそれだ。
源平両軍ともに、その志雄山路へは、支隊を分けて戦い、本軍と本軍との出合いは、間道の倶梨伽羅峠と、予期していた。
で、このときのいくさ を、
“北陸の二手合戦”
と、言ったりする。
平家方でも、前夜、野営していた倶梨伽羅の西の ── 津幡つばた 、竹橋の村落を、その朝、出動しだしたが、先頭隊が頂に着いても、なお、四万余の歩騎や幡は、はるかふもとを、あり のごとく、延々と続いていた。
間道である。それほど、道は狭くけわ しく、やっと縦隊一列が、深い谷間をのぞきながら、うねりうねり通れるぐらいな幅しかない。
大将軍のたいらの 維盛これもり は、越中権頭えっちゅうごんのかみ 範高のりたか平泉寺へいせんじ斎明さいみょう を道案内として、
「かしこの峰は? かしこの谷は?」
と、一巡、地形を見て歩いた。
すると、越中寄りの山すそに、おびただしい白旗が臨まれたので、維盛は眼を見張った。
「あれよ、源氏はすでに、麓口ふもとぐち を抑え、われへ攻めよするてい ではないか。あの大軍の布陣は、なんという地名ぞ」
日宮林ひのみやばやし かと思いまする」
「道はあるのか」
「南黒坂を経、卯ノ花山、塔ノ橋へも参られます」
「すれや、用意なくば」
維盛は、いささかあわてた。
それを望むまでは、まだ、こうまでの事態とは思っていなかったものらしい。
惜しいことであったと、後には、平家の為に、人びとは言った。この時の微妙な日宮林しょうすい の心理が、以後の平家の凋落ちょうらく を、急速に決定づけてしまったのだ。
もし維盛が、もすこし、深い思慮のもとに、源軍の実態や、地勢を見、そして敵の偽装の白旗などに驚かず、敢然と倶梨伽羅を越え、越中平野へ進出していたら、おそらく勝敗は逆になっていただろう。ひいては、全平家の以後の運命も、変わっていたかも知れないのである。
が、いかんせん、維盛も行盛も、いわゆる都の公達きんだち だった。もとよりひる んだのではないが、果断よりも、大事を取ってしまったのだ。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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