〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-Z 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (九) ──
く り か ら の 巻

2013/10/11 (金)  めい (三)

先に、保科党の一隊を潜行させた後、義仲は、第二の令を出した。
「能登路は、叔父御を大将とする。行家殿、このたびは、ぬかるまいぞ」
能登の志雄山道は、元来、加賀と越中を結ぶ本道である。しかし、平家はそこを、支隊にまかせ、倶梨伽羅の間道を本軍の進路とめざしている。
で、義仲も、その方面を、叔父行家で足るものと考えた。新宮十郎行家に、たての 親忠ちかただ 、足利義兼、宇野弥平四郎などの兵力八千をさずけて、
「急げ」
と、その発向を見送った。
そして、あとの全軍は、同日のひる すぎから夕べにかけて、庄川を渡り、北般若野きたはんにゃの から南般若野へと、ゆるやかに移動し、それはまた、翌十一日の朝までに、幾つにも分裂して、まだ明けやらぬ倶梨伽羅山の模糊もこ とした山影のすそに、ひっそりと、肉薄していた。
いま、その配置と、兵の概数を、鳥瞰的ちょうかんてき に見るならば。
 右軍、歩騎五千人
    首将 樋口次郎兼光
    副将 巴ノ前
    部将 余田次郎、林光明、富樫泰家
この右翼は、北黒坂から、金剛池を経て、倶梨伽羅頂上の猿ヶ馬場へすすむ。
 左軍、歩騎六千余人
    首将 根井小弥太幸親
    部将 高科高信、熊谷次郎、落合兼行
左軍は南黒坂を行き、松尾村から鷲尾山の南を迂回うかい して、倶梨伽羅の塔ノ橋を突く。
 また、主力の中央縦隊は、二段にわかれ、
  中軍先鋒、歩騎四千余人
    首将 今井四郎兼平
  本軍、騎歩一万余人
    大将 木曾次郎義仲
    部将 海野幸広、粟田別当、小諸忠兼、諏訪光貞、葵ノ前
 という配備だった。
巴が、義仲のそばを離れて、右軍に組み入れられたのは、肉親の兄兼光が、首将として、右軍をひいきていたからであろう。葵が、中軍に残ったのも、養父、栗太別当くりたのべっとう 範覚はんかく が中軍にあるせいだろうと思われる。
いつもならば、この二女性は、義仲の左右にいるはずだが、おのおの一手の将となって、別れ別れのなったのも、この一戦にのぞむ義仲や彼女たちの覚悟の程も知られると言うものである。
一方。
前の日から潜行して日宮林ひのみやばやしく埋伏まいふく していた保科四郎の一隊は、その日、伝令で、義仲から次のような命を受けた。
(諸所に、無数の白旗を立てよ。敵の眼に、大軍が在るかのような軍容をつくれ)
保科四郎は、ただちに、偽装の計をほどこした。
それは、蓮沼村近傍を、たちまち、源氏の旗だらけにして、旗だけを、遠望すれば、まさに大軍が控えているかのように見えた。
ところが。
同じく十一日のひる ごろ。
ぎょっとするような流説が飛んだ。
「平軍の一隊が、すでに、砺波山となみやま のどこかを越え抜けて、矢田川へ前進している」
と言うのである。
「すわや、油断をつかれ、はや一角を破られたか」
義仲は、諸隊を督して、それぞれの部署へ急がせるかたわら、砺波山麓となみさんろく のあらゆる隘路あいろ に伏兵をくばり、mた、矢田川平原へ出たという平軍の所在をもと めさせた。── しかし結果は、
「どうも、里人さとびと のうわさにすぎぬことのようです。おそらく、お味方の一隊を見違えて、里人らがさように申しふらしたのではありますまいか」
との物見頭の答えだった。事実、どの方面からも、倶梨伽羅以北で、平軍を見たというような確報はそれきりない。
「ほっとしたわい」
と、義仲もつぶやいた。さすがの彼も、この日ばかりは、眼にも異様な光をたたえ、朝の一食をとっただけで、終日、食欲も忘れ顔だった。        

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
Next