一時の騒ぎは、兵同士の喧嘩
でもなく、裏切り者が出たわけでもない。牛繋うしつな
ぎ場の牛が、火を恐れて、暴れだしたまでのこと。 そう原因も知れ、騒ぎもすぐ鎮まったのである。── が、なお義仲が諸将を連れて、庄川べりの自陣を見て歩いたのは、目睫もくしょう
の決戦をひかえての前夜だけに、軍紀のゆるみを惧おそ
れての、微行しのび の陣見まわりをしたものであったろう。 総大将の正しい閲兵は、翌十日の昼行われた御河端おかわばた
の陣ぞろいがそれといってよい。 この日の陣ぞろいには、先鋒も一応引き返し、遅れていた隊も着き、木曾の三万余騎は、娘子軍じょうしぐん
までふくめて、一兵も余さず御河端に集まったので、壮観を極め、それは、義仲一代の曠はれ
ともながめられた。 意識してか、義仲のいでたちも、特に華やかだった。巴ともえ
と葵あおい の女将軍ふたりを、駒の左右に従え、すこし間をおいて、叔父の新宮十郎行家以下、樋口兼光、今井兼平、楯親忠たてのちかた
、根井ねのいの 小弥太こやた
などの四天王、また落合兼行、大夫坊覺明、仁科、山田、高梨、余田、富樫などの部将数十人をうしろに連れていた。そして、大声で、 「峠だぞ、峠だぞ。さしかかる戦いくさ
の山こそ、都入りが成るか成らぬかの峠だ。功を立つるも、恥を残すも、今明こんみょう
の一期にあるぞ」 と、七団の軍列の間を、とうとうと、ひづめの音高く、駈け通った。 全軍を七手ななて
に分けたのは、横田河原で大捷たいしょう
したときの陣立たいしょう である。以後、木曾勢は、それを吉例とし、七将星七手備ななてぞな
えを、つねとしていた。 巡陣を終わると、義仲は、御河端の御祓岩みそぎいわ
に駒を降りて立った。むかし、庄川は雄神川おかみがわ
とよび、雄神の社領だった川端三十町は、魚鳥禁断の場所とされていた。御祓岩はその遺跡である。 ここに床几しょうぎ
をすえ、叔父行家、四天王などの股肱ここう
を左右に、彼は、 「いよいよ、平家との乾坤一擲けんこんいってき
の日は近づいた。敗れたら、事ここに終わるというもの。勝ったら、おれは一躍、都へのし上って、天下をにぎろう。面々の運不運も、今明こんみょう
のうちにある。男と生まれ、おたがい、悔いのない生涯をしようぞ」 と、烈しい語調で言った。 |