〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-Z 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (九) ──
く り か ら の 巻

2013/10/07 (月)  ひうち がつ せん (二)

平家はやがて、近くの山の上や、中腹や、いたる所に、その先鋒隊せんぽうたい の影を見せはじめた。
維盛たちは、本陣を、岩神山の上においた。
そこへ、よじ登って立った日、維盛は、山麓さんろく の東西にわたる湖のような水を見て、
「これが、人のわざ か」
と、驚き顔をした。
都人の、わけて、桜梅少将おうばいのしょうしょう といわれた公達育ちの彼には、想像もつかないことであった。
兵馬は、山を埋めるほど、続々着いた。
木ノ芽越えから。── また、分遺隊として、橡ノ木峠を迂回うかい して来た一軍とも、合流した。しかし、
「どうして、かなたの燧へせまるのか」
となると、これほどな兵力も、ほとんど、無能なものに見えた。手のほどこしようもない。
とこどき、天気のよい日など、燧のいただきの、最も高い岩の上に、とんび のように、敵兵が見える。
あきらかに、あざ笑っているふうだ。どうかすると、揶揄的やゆてき な表情を見せ、平軍の方へ向かって、しり などたたく。
ぞ、遠矢の上手はいないか。あの尻を、射てくれずや」
平家の諸将は、くやしがった。
けれど、しょせん、矢のとどき得る距離ではない。 「われこそ」 などと、強弓を試みる者もいたが、矢は、隔てる水面のとろ に、鳥の のごとく、みな、浮いてしまうに過ぎない。
「もう幾日ぞ。やがて、五月雨空さみだれぞら も近づこうに」
対陣は、長くなった。
四月も末になってゆく。
「かかるおりは、また、耳遠殿みみどおどの に、策を問わせ給うしかございますまい」
滞陣に み、山気の湿潤しつじゅん に倦み、軍議群議のむなしさにも倦んだ諸将は、ある日、維盛にそう言った。
聞きとがめて、維盛は、
「耳遠殿とは、たれのことかよ」
「斎藤の別当でございまする」
「あ、あの老人か」
笑った。── そして、考えていたが、
「これへ来てから、実盛は、帷幕いばく に見えぬが」
「されば、もそっと、燧の根に近い、べtyな山のはく に、主馬判官しゅめのほうがん 盛俊もりとし と、わずかな手勢をもって、潜みおりますゆえ」
「なんでまた、老人のくせに、なたそのような小勢で、危ない場所に、伏せこも っておるのであろう」
「何か。両名の望みだそうで、通盛卿には、御承知だそうですが」
「ではまた、越前殿との、話し合いか」
維盛は、いささか、おもしろくない。
しかし越前三位通盛に いてみても、よく分からなかった。ただ、両名の希望ゆえ、ゆるしておいたというに過ぎない。
── と、ある日のたそがれ。
その老武者実盛が、長柄を杖に、よぼよぼと、帷幕を訪うて来て、
「こよい、主馬判官盛俊が、ひとりの大法師を連れて参りますが、ごく御内密に、主将の方々も多からぬようにし、篝火かがり も消して、ひそと、お会い給わりませ」
と告げた。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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