〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-Z 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (九) ──
く り か ら の 巻

2013/10/07 (月)  ひうち がつ せん (三)

やがて、夜に入ると、果たして盛俊が、一人の法師を連れて来た。
囲いの内には、維盛、通盛のほか、ごく少人数の将しかいない。そして、望み通り、しょく もかがりも消してあった。
「三位中将殿と、越前三位殿もいらせられる。斎明殿、ごあいさつなされい」
盛俊が、うしろにあって、うながした。
法師は、ほの暗いので、よく分からないが、濡れねずみ な姿らしい。敵方の者とは、実盛から聞いている。おそらく、泳ぎ渡って来たか、いかだ にたよって、水を越えて来たに違いない。維盛は、そう察しながら、じっと、奇異な一個の影に、眼をすえていた。
「平泉寺の威儀師斎明にござりまする。はからずも、こう間近に、御見ぎょけん を賜り、まことにおそ れ多いことで」
「そちが、斎明と申すか。実盛と盛俊を介して、平家に内応ないおう せんとは、本心か」
「本心に相違ございませぬ」
「義仲に仕えながら、義仲を裏切るは、いかなる所存ぞ」
「いや、木曾殿には、元来、なんの恩義もある仲ではおざりませぬ。力には抗し難く、力の下に圧伏され、余儀なく従うていたまでの者でおざる」
「主馬判官盛俊とは、どういう縁で」
「主馬殿のおい 、盛光どのは、野僧の法弟dおざれば」
「前からの知り合いか」
「奈良におりまいたころよりの」
「奈良に」
「は」
「すれや、わぬしも、興福寺僧の一人であろう。南都炎上のみぎり、若狭、越前などに落ち延びた法師の群の一人かよ」
「仰せの通りでございまする」
「と、いたせば、平家に恨みこそあれ」
「あいや、何もかも、諸業流転しょごうるてん相輪そうりん の一図、なんで、鬼のように、平家に終生のお恨みを抱きましょうや。ねがわくば、ただ、法楽の一浄地を賜って、天台弘通てんだいぐつう一伽藍いちがらん を建立したのがわが身の願いにすぎませぬ」
「そうか。・・・・いとやすいことだ。もし、そちの約に違背なくば、越前大野郡を、そっくり、与えよう。北陸平定のあかつきには」
斎明は、維盛の墨つきを一筆もらうと、闇に紛れて、帰って行った。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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