〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-Z 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (九) ──
く り か ら の 巻

2013/10/05 (土)  にじ ま る (一)

経正は、両手で琵琶びわ をうけて拝した。そして、琵琶のかすかなほこり を、鎧下着よろいしたぎ の袖で、そっとふいた。
「麻鳥 ── 」 と、あらたまって、経正は、辞を低うして言った。
「故入道殿のおん臨終いまわ にあたり、御辺のような真の仁者に、さいごの脈を てもろうたは、故人入道殿にも、さこそ御満足。そのおり、使いに立った経正までも、寝覚がよい」
「重ね重ねのおことば、身に過ぎまする」
「いやいや、その後の騒ぎに取りまぎ れ、いまだ西八条より、礼の使者が出たとも聞き及ばぬ。今日のふしぎな邂逅かいごう は、故入道殿の、それゆえの、お引き合わせのや候わめ。・・・・そう思われて、ならない。・・・・したが、御辺の生涯を承っては、何やら、礼物などもさし出しかねるが」
「もとより、そのような物いただ こうとは、思いもよりません」
「・・・・が、貧者の一燈と申すこともあれば、経正が心を込めて一曲をだん じよう。礼というにはあらねど、所は竹生島、また、今生こんじょう一期いちご やも分からぬ。聞いてくれるであろうか」
「ありがたい。おこころざしを」
麻鳥は、両手をつかえて、
「わたくしも、もと伶人れいじん の家の子、さすが、家の血筋と申しましょうか、笛琴、鉦鼓しょうこ 、なんによらず、音楽は好む道でありますが、ただ殿上の管絃は、もう聞きたくない、自分も楽座がくのざ にすわるまいと、誓うたのでございました。・・・・が、このような仙境せんきょう で、虚心のままに、御秘曲を伺わせていただけるとは、夢のようなうれしいことであす。久しぶりの法楽ほうらく と申すしかありません」
「楽器は仙童、聞き人は麻鳥。ちと、心たじろぐが・・・・」
「なんの、御幼年より仁和寺にんなじ御室おむろ の君に、 かせ給うて、琵琶の名手たることは、京童きょうわらべ も存じ上げておりますものを」
「琵琶に向かわば、無心なれと、師の御坊も申された。妙音天のおん前も、あら恥かし。麻鳥よ、ただ、そよの風と、聴きねかし」
経正は、琵琶を抱いて、キ、キ、キ・・・・と転手てんじゅ を巻いては、ゆる め、また締める。
そして、いと を調べ終わると、おもむろに、上弦じょうげん の秘曲を き始めた。
緩調かんちょう 、急調、破調。── だん じながら唱歌してゆくちに、経正は、もうまったく、曲になかに、 っていた。その面は、無我の人をあらわしている。
いつか、陽は比良ひら のかなたへうすづき、湖上一面に波色を深めていた。
湖北か湖南か、どこかで、ひと雨あったような雲が、夕べを急ぐように、 ぎって行く。
ぱらと、竹生島の上へも、わずかな雨つぶを、こぼして去った。
大絃だいげん 、小絃、琵琶は佳境に入り、弾く人もない、聴く人もない。ただ、微妙な音楽があるだけだった。
── ふと、そこの破れひさし からかや の梢にから んでいる藤の花が、一過いっか の風と、こぼれ雨に、ほろと散って、麻鳥のたもと に濡れついたが、それも知らないようである。
おや、麻鳥は、うなじ を折って、まったく、えり もとに顔を埋めてしまい、果ては、涙を流している容子ようす に見えた。
すると、そのあいだに、なんの偶然か、薄い雨雲をつらぬいて、湖上の空に、ふたすじ夕虹ゆうにじ かった。そして、一つの虹の端は、この竹生島のみどりの中から立っているかと怪しまれた。
琵琶を抱いた経正の姿は、ばち も、そのひざも、五彩の虹に染まって見えた。
老禰宜も、何を感じたのであろうか。
「・・・・ああ」
と、突然、ひれ伏して、 を合わせた。
やがて、曲が終わってから、禰宜はおそ ろしそうに、こう言った。
「まさしゅう、御秘曲の神技に、妙音天も感応かんのう し給うたに相違ありません、皇后宮亮どのの御袖のあたりに、白龍びゃくりゅう げん じ、天女の舞うかとも思わるる、羽衣の影さえ、あざ らかに、眼に見えまいた・・・・」
奇蹟を語る彼は、奇蹟を信じて疑わない。
汗さえ額に見せて、やや疲れ気味であった経正は、
「御返上を」
と、琵琶を両手に捧げて、禰宜の手に返し、階下にうずくまっていた二人の郎党を見て、
「さても、思わず長居をしたの。夜に入って、もし先陣の発向に残されては不覚。・・・・いざ戻ろうか」
と、静かにそこを立ちかけた。
有教、守教の二人は、すぐ小舟の支度に、先へ駆け降りて行ったが、もう、足もとは暗かった。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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