こんどの北国発向には、平家はおそらく、前代未聞
な大軍をそろえるであろうと、もっぱらな評判だった。 洛中の色めきだけではない。六波羅みずからも 「かつてお召しなき西海、中国、四国の領家にまで、急ぎ上のぼ
れよとのお沙汰あったれば、総勢十万騎にも及ぼう」 と、声を大だい
にして言っている。 日一日と、異様なまでに、戦時色が濃くなってゆく。 公卿僉議せんぎ
も開かれた。 この大衆議には、三位以上、のこらず列座ということになっている。ここではいつも、平家へのおいがらせだの、難題だの、何か、公卿感情がうごめいて冴さ
えないのが常例であるが、このたびは違っていた。 議目の決定は、いつになく快くすすみ、上卿たちも積極的だし、またたれよりも後白河が、 「すみやかに、木曾を討ち平らげ、しかる後に、鎌倉を」 と、旺さかん
なるおことばで、宗盛以下の一門を、励まされた。 法皇にも、特に、御意識のうえかもしれない。 さきの山門御幸のことでは、院と平家とのわだかまわりもある。──
このさい、平家一期いちご の浮沈ともいえる大難局を扶たす
けておくことは、一切の解決になろう。── そういうありがたいお考えによりものと、宗盛などは、真っ先に感激した。 法皇には、なおまた “片道を賜う” という特別な措置をゆるされた。 往きの軍費兵糧ひょうろう
の不足などは、途中途中の国くに
や郡こおり の役所で、公の租税そぜい
や貢物みつぎ を徴発して用に当てるもさしつかえない。
── とする令を “片道を賜う” という。 ともあれ、清盛が在りし日のようでがないにしても、なお、平家の強大な潜勢力は 「眼にも見よ」 とばかり、都の内に、充ちあふれた。──
およそ、召しをうけて馳は せ参じた将士の国々は。 東海道では、伊賀いが
、伊勢いせ 、尾張おわり
、三河みかわ の大部分。 山陽道では、近江おうみ
、美濃みの 、飛騨ひだ
、信濃しなの の一部。 北陸では、若狭一国。そのほかは、いたるところの地方地方で参陣の約束である。 畿内きない
の兵馬はもちろんすべてだ。── 山陰、山陽、西海の将兵さえも参加している。 十万余騎と号するも、あながち、誇大とは思われない。 けれど、じっさいは、おそらくその半数以下であったろう。それだけでも、当時の洛中の総人口に匹敵する。しかも、時は、飢饉続きの悪歳だった。たとえ幾日でも、むなしく、これだけの口数の者を、都にごった返してはおかれない。 永寿二年四月十七日の辰たつ
の一点 (午前八時) 。── まずその第一陣が都を立った。 以後。 朝となく夜となく、毎日毎日、北陸へさし下る兵馬はひきもきらない壮観であったらしい。
「玉葉ぎょくよう 」 によると、それは、二十三日の今日に至って、やっと終わったと、書いている。 |