〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-Z 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (九) ──
く り か ら の 巻

2013/10/04 (金) せん  どう (一)

こんどの北国発向には、平家はおそらく、前代未聞ぜんだいみもん な大軍をそろえるであろうと、もっぱらな評判だった。
洛中の色めきだけではない。六波羅みずからも 「かつてお召しなき西海、中国、四国の領家にまで、急ぎのぼ れよとのお沙汰あったれば、総勢十万騎にも及ぼう」 と、声をだい にして言っている。
日一日と、異様なまでに、戦時色が濃くなってゆく。
公卿僉議せんぎ も開かれた。
この大衆議には、三位以上、のこらず列座ということになっている。ここではいつも、平家へのおいがらせだの、難題だの、何か、公卿感情がうごめいて えないのが常例であるが、このたびは違っていた。
議目の決定は、いつになく快くすすみ、上卿たちも積極的だし、またたれよりも後白河が、
「すみやかに、木曾を討ち平らげ、しかる後に、鎌倉を」
と、さかん なるおことばで、宗盛以下の一門を、励まされた。
法皇にも、特に、御意識のうえかもしれない。
さきの山門御幸のことでは、院と平家とのわだかまわりもある。── このさい、平家一期いちご の浮沈ともいえる大難局をたす けておくことは、一切の解決になろう。── そういうありがたいお考えによりものと、宗盛などは、真っ先に感激した。
法皇には、なおまた “片道を賜う” という特別な措置をゆるされた。
往きの軍費兵糧ひょうろう の不足などは、途中途中のくにこおり の役所で、公の租税そぜい貢物みつぎ を徴発して用に当てるもさしつかえない。 ── とする令を “片道を賜う” という。
ともあれ、清盛が在りし日のようでがないにしても、なお、平家の強大な潜勢力は 「眼にも見よ」 とばかり、都の内に、充ちあふれた。── およそ、召しをうけて せ参じた将士の国々は。
東海道では、伊賀いが伊勢いせ尾張おわり三河みかわ の大部分。
山陽道では、近江おうみ美濃みの飛騨ひだ信濃しなの の一部。
北陸では、若狭一国。そのほかは、いたるところの地方地方で参陣の約束である。
畿内きない の兵馬はもちろんすべてだ。── 山陰、山陽、西海の将兵さえも参加している。
十万余騎と号するも、あながち、誇大とは思われない。
けれど、じっさいは、おそらくその半数以下であったろう。それだけでも、当時の洛中の総人口に匹敵する。しかも、時は、飢饉続きの悪歳だった。たとえ幾日でも、むなしく、これだけの口数の者を、都にごった返してはおかれない。
永寿二年四月十七日のたつ の一点 (午前八時) 。── まずその第一陣が都を立った。
以後。
朝となく夜となく、毎日毎日、北陸へさし下る兵馬はひきもきらない壮観であったらしい。 「玉葉ぎょくよう 」 によると、それは、二十三日の今日に至って、やっと終わったと、書いている。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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