〜 〜 『 寅 の 読 書 室  Part U-Z 』 〜 〜
── 新 ・ 平 家 物 語 (九) ──
く り か ら の 巻

2013/10/01 (火)  くるま がえ し (二)

「おやかた には、お眼ざめでございましょうや」
早暁のことである。
門脇殿かどわきどの の門はまだ閉まっていた。
そこを叩いて、中門廊の前へ来た使いの武者は、
直々じきじき 、申し上げよと、主人よりいいつかって参った使いの者。すぐお伝え願いたい」
と、召次めしつぎ へ、言った。
召次の侍が 「いずれから?」 とたず ねると、 「本三位中将ほんざんみのちゅうじょう重衡卿しげひらきょう の家の子」 と答えるので、侍は、急いで、奥のお人へ、その通りを取次いだ。
まだ眠っていた教盛は、そらから顔を洗い、髪を撫で、ずいぶん、時たってから、やっと中門廊の端に、姿を見せ、
「何事かよ、この夜明けに」
と、庭面にわも に、うずくまっている使いを見た。
の儀でもございませぬが・・・・」 と、使いの武者は、あたりをはばかるような声で言った。 「── 昨夜来、山門の動きは、何やら不審が多く、御用心あれとの、諜者ちょうじゃ の知らせも、しきりに、はいっておりまする」
「うむ、夕べから、そんなうわさだが、山門の不穏というやつ、まことに、めずらしくもない話だ。また強訴ごうそ 騒ぎでもやるもであろう」
「いえいえ、それとはこと なり、平家討伐の軍支度いくさじたく と、聞こえまする」
「なに、軍をもよお し、攻めて来ると言うのか」
「山門へたいし、ひそかに、法皇の御内旨があった由で」
「た、たわけたことを、一院が、さような密命をお下しになるはずはない」
「されば、さようなおはら ぐろいおんたくら みのあるびょうはずはないと、昨夜から風聞も、聞き流されておりました。しかるに、今暁、まだ天も暗いうちに、一院には、にわかに、法住寺殿ほうじゅうじでん を出られ、山門へお急ぎあったのでございまする」
「えっ、山門へとな。・・・・法皇のみ車がか?」
「はやくより叡山へ御遁入ごとんにゅう のお企てらしく、侍者の公卿、北面の武者、女房車まで、悉皆しっかい供奉ぐぶ されましたそうな」
「しゃつ。 しからぬおんことだが、して、して、一門の人びとは、みなその由を聞き及んでおろうか」
「主人重衡殿には、わられ家の子に命じて、諸家の御門を同様に打ちたたかせておるはずでございまする。とうやかた におかれても、すぐ六波羅へ、御出勢ごしゅつぜい くださいますように」
「やや、陣布令じんぶれ かよ。では、こうしてもおられまい」
教盛のりもり は、にわかに、あわて出した。そして、まもなく馬上となり、郎党一族を引き連れて、六波羅へ駆けて行った。

著:吉川 英治  発行所:株式会社講談社 ヨリ
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