清盛は死に臨んで重大な遺言をしたという記録と、いやそれは後人の
「こうもあったろうか」 という推察で、実際の遺言はあったか否か分からない、という考え方との、二つの説がある。「東鑑
」 には、 |
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遺言に云ふ。三ヶ日以後、葬の儀あるべし。遺骨においては、播磨国山田法華堂に納め、毎七日、かたの如く仏事を修すべし、毎日これを修すべからず、また、京都において、追善もなすべからず。子孫、ひとへに、東国帰住の計をいとなむべきばり。
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とあって、要するに、これが 「盛衰記」 その他に普遍ふへん
されたものであろう。古典平家なども、それの誇張と潤色じゅんしょく
であることが、明らかに読みとれるのである。 |
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入道相国、日頃は、さしもゆゆしう、おはせしかども、いまはの際にもなりしかば、いとも苦しげにて、息の下にて、のたまひけるは (中略) 「今生の望みは、今は一事も思ひおくことなし、ただ、思ひおく事とては、兵衛佐ひょうえのすけ
頼朝よりとも が首を見ざりつることこそ、何よりまた本意なけれ、われ如何にもなりなん後、仏事供養もすべからず、堂塔をも建つべからず急ぎ討手をくだし、頼朝が首かうべ
を刎は ねて、わが墓前に懸か
くべし、それを、今生後生こんじやうごしやう
の孝養にてあらんずるぞ」 とのたまひけるこそ、いと罪深うは聞えし。 |
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右のように、清盛が臨終に、
「頼朝の首を、わが墓前に供えよ」 と言ったと云うことは、数百年来、真実らしく伝わって来たが、それは、清盛が言ったのではなく、後の人の臆測おくそく
であろう。 何よりは 「墓に首を供えよ」 などという表現が、あの時代の言い草でない。儒学から出た士道的、また殉忠義烈の復讐型ふくしゅうがた
を思わせるものだ。── 武門は武門でも、平家はまだ 「武」 と 「儒学」 とを鍛う
ち交ぜた武士道をもつまでには至っていなかった。むしろ多分に、平安朝貴族のにおいを持った半公卿武者だった。 では、彼は、ついに、何も言わずに死んだろうか。 そうも言えない。凡人の死に際ぎわ
に言いそうなことは、清盛も言っただろうと考えられる。 潜伏瘧ぎゃく
は、発作すると猛烈な大熱を示すが、おさまると、平調に回かえ
る。その間には、二位ノ尼とも、いろいろ話もあったにちがいない。遺言といえば、そのすべてが、遺言といえよう。 諸書一致していることは、 (自分が死んでも、仏事供養の必要はない) と、言ったと云う事だけである。 清盛らしいし、これは、彼の日ごろの言行や、その性格とも、矛盾がない。 とまれ、内外に、その喪が発せられたときは、洛中、くつがえるような騒ぎであったに相違なく、西八条はたちまち弔問の車馬で埋ったことであろう。いま、その弔客の一人、九条兼実の日記を借りて、その状を想いみることは、もっとも簡略で、真に近いかと思われる。 |
閏ウルフ
二月四日。 入道太政大臣、薨コウ
ズ。年六十四。 天下、走リ騒グ。日ゴロ悩ムトコロアリシト。 身熱火ノ如シ。世以テ、東大寺、興福寺ヲ焼クノ現報ムクイ
トナス。 八日、葬礼。 |
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さきに、南都の二大寺が焼き討ちされた時、 「世は末世か」
と痛哭つうこく し、 「天魔の所業ぞ」
と嘆いた兼実のことであるから、きょう、西八条の弔問に来て、 (── 太政入道は、仏罰に当って死なれた。怖こわ
いものである) と、痛感して立ち帰ったのもむりはない。 |