通夜
の晩、ひとつの不思議があった。 六波羅の南の方にあたって、おりおり、大勢の人間が、どっと、笑いどよめいたり、乱舞したり、歌拍子うたびょうし
を合わせたり、何しろ、怪しげな人声がした。── はたと、やんだかと思うと、また、夜風の間に、聞こえて来る。 「はて、あれは、何か」 「相国のおん通夜つや
なるを、悲しむでもなく」 「心なき業わざ
よ。いかなる怪しの者か、見てまいれ」 しかし、立つ者はなかった。 「おそらく、あの声は、天狗てんぐ
だろう。── 相国の薨去こうきょ
を知りながら、あんな無遠慮なるばか笑いをなし得る者は、天狗以外にないはずだ。天狗に違いない」 と、ささやき合うだけである。 そのうちに、篝かが
り所の武者で、気負いの男が、 「憎さも憎し、天狗たりとも、射落としてくれん。われと思わん者はおれについて来い」 と、弓を握って、駆け出した。 兵、百余人が、彼とともに、怪しげなる笑い声のする方角へ走って行き、やがて、それらしき火光を闇の中に見いだした。 近づいてみると、そこはまぎれもなく法皇の御所、かの法住寺殿ほうじゅうじでん
の御庭みにわ である。 法皇は去年こぞ
の冬、福原から還幸されて、いちど、ここへお入りになったが、何しろ、鳥羽とば
御幽閉このかた、足かけ三年も空家同様にされていたので、樹林雑草も伸び放題に荒れていた。そこで池頼盛の邸へまたお移り替えになり、今は土木の工匠らと、お留守の備前の前司ぜんじ
基宗もとむね がいるだけであった。 この夜、基宗は、御庭のすみで三、四十の工匠や部下とともに、よそながら、入道相国の死を悼いた
み、通夜酒つやざけ を酌み交わしていたが、そのうちに、みな、酔っぱらい出して、踊るわ、歌うわ、通夜も忘れて、歓楽していたのである。 「つつしめ」 「かりそめにも、かかる夜なるに」 「天下の嘆きがわからぬか」 こう、六波羅の武者に、怒鳴りつけられて、彼らが、酔いをさましたのは、いうまでもない。 主なる者七、八名は、引っ縛くく
られて、武者に引かれて行った。ところが、なお、依然として、天狗の笑いみたいな騒ぎがどこかで聞こえて来るのである。 さらに、手分けをして、捜査して行くと、前前日、入道の遺骸いがい
を荼毘だび に付した鳥辺野とりべの
に近い峰に行き当たった。 見ると、そこの新しい火舎ほや
(火葬場) の御垣みかき
を繞めぐ って、鬼火のような焚た
き火が、幾箇所にも、どかどかと景気よく燃えている。火光のまわりには、山野に飢えていた者だの洛内の飢民が、何百人となく群れていた。そして火舎寺ほやでら
の供物や、労ねぎら い酒や、諸家から得た施物など持ち運び、太政入道の葬儀を、久しぶりに会った大振舞と歓喜して、ここでも、飲めや歌えの罪のない宴楽に、はしゃいでいたのだった。 「天狗の声の正体は、かくかくの次第でおざりました」 と、武者の報告を聞いて、通夜の宗盛は、 「・・・・そうだったのか。いや、それならば何も咎めることはない。いかにも、亡き太政入道殿のおん通夜らしきことでもある。捕えて来たと申す大勢の者には、さらに供物や酒を与えて、みな放してやるがいい」 と、言った。 八日の葬儀は、質素であった。栄耀えいよう
を一世に極むといわれた人にしては、余りにも、うら淋さび
しいばかりな葬日だった。── 六波羅ニテ御遺骸ヲ焼キ上ゲ奉リ、愛宕オタギ
(珍皇寺) ニ葬ヒ侍ハベ
ル ── という記録のほか、この日に語る何事もない。 思うに、時しも、境外に兵事をひかえていたさいであったし、また、仏の清盛自体が、仏者の虚飾や虚礼をきらい、大法秘修などの仰々しい僧列を伴うことを嫌ったせいであろう。 ──
それと、何よりは、洛外洛中、青草も見えないほどな飢饉ききん
であったことにもよる。 それから、幾日かの後 ──。 いまは、掌て
にも乗るほどな、一塊の灰となった清盛の遺骨の壺つぼ
は、徳大寺実能の子、円実法眼の頸くび
に掛けられて、清盛の好きな福原の地へ、旅立っていた。 湊川に近い輪田の浜のほとり、法華堂 (後の八棟寺)
の数尺の地が、この世で彼に約されていた永劫えいごう
の地であった。 彼が、半生を賭か
けた福原の町も、上下、都還りの後は、また、昔の姿に回かえ
りかけてはいた。しかし経ヶ島の築堤は、なお狂風と荒波を拒んで、あまたな船をひきつけている。そして、続々と陸上あが
って来る西国の兵馬は、六波羅の召しに応じて、ひっきりなしに、都へ馳は
せ参さん じて行く者たちであった。 |